「逃げるは恥だが役に立つ」一昔前のドラマのタイトルでもありましたね。
 元々はハンガリーのことわざだそうで、その意味は「後ろ向きな選択でもよいい、生き抜くためには時には逃げることも必要」ということだそうです。

 今の日本人は、逃げることに抵抗のある人が多いです。
 我慢して、歯を食いしばって、理不尽な環境に耐える、そのなかで自分は磨かれていくのだ・・・。神は自分の内に在るという信仰を持つ日本人らしい発想ですね。ですが自らを磨くためといっても、その結果として最悪命を失ってしまうのでは元も子も有りません。

 昔の日本人は、どうだったでしょうか。逃げることは恥、この傾向は江戸時代に武士の教育に儒教が導入されたあたりから強化されてきたものです。それまでは、武士であっても、負けそうになったら逃げるというのは常識でした。逃げるのが上手い、撤退が得意。これは戦国時代の武将のステータスでした。


 より遡って鎌倉時代まで行くと、名乗りを上げて戦う武士の姿が想像されますが、あの時は命の考え方が自分単位ではなく血族単位であったことが大きいのです。当時は平均寿命が短く、自分一代で物事は完結しない。そのため子孫をはじめとした血族の存亡と繁栄が、自分自身の命に優先しました。

 名を上げれば一族に畏敬が集まり反映するからこそ、そこに自分の命以上の価値を見出して命を懸けることができ、自分が一族最後と分かれば何としても生きるため、逃げるという選択を当然の様にします。

 今の日本人は、一代で自己の人生や生き方を完結できる様になりました。だからこそ、物事を成すために、江戸時代以前の様に身を逃がすことを厭わなくても良いのでしょう。むしろ自分の融通の利かなさ、頑固さを、自分を磨く道を歩んであるからと捉えている人、周りに合わせることのみに眼が行き、自分の意思が持てない人には、その考えを見直す切掛けとなって欲しいと思います。
 こうした、順を追った日本人の価値観や思想の変遷は学校教育で本当は教えて欲しい、そうでなくても広く知られて欲しいと思います。

 さて、逃げるということは、その身が逃げる、心が逃げるのふたつがあると私は考えます。

 本項では、身が逃げることについてお話しました。理不尽な環境にいるのであれば、身を逃して然るべきです。


 ですが、、心は逃げてはいけません。 次回は、その辺をお話したいと思います。