教える側にとって、何かを学んでもらい上達してもらうために指導するうえで大切なことのひとつに「褒める」ということがあります。
これは、主に褒めることによって、「自分にはできる」という意識を持ってもらい、以下の効果を見込んでいるからです。
1:学びの内容への上達意欲を促す。
2:積極的な使用と応用を促す。
3:自信を持ってもらう。
これは、主に褒めることによって、「自分にはできる」という意識を持ってもらい、以下の効果を見込んでいるからです。
1:学びの内容への上達意欲を促す。
2:積極的な使用と応用を促す。
3:自信を持ってもらう。
とまあ、書いてはいますがシンプルに褒められると嬉しいものですよね。
ただ、敢えてわざわざ書くのは、元々日本にはこの褒めて伸ばすという考え方が浸透してこなかったからなのです。
この理由は日本人が「神が自分に内在する」と考えており、そのための人生のテーマとして「道の思想」を持っているためです。
この辺は以前にも書きましたが大雑把におさらいすると、
「神が自分に内在する」とは、外部に絶対神を持たず自分自身の内に高潔な神性(魂)が有る、と信じている。
「道」とは、日々の活動はその魂が仏教でいう悟り・解脱の境地に至るための手段であり、生活すべてが修練の場であると捉えている。
ということです。
「神が自分に内在する」とは、外部に絶対神を持たず自分自身の内に高潔な神性(魂)が有る、と信じている。
「道」とは、日々の活動はその魂が仏教でいう悟り・解脱の境地に至るための手段であり、生活すべてが修練の場であると捉えている。
ということです。
それは日本人が無意識化に持っており、御先祖達から受け継いできた思想であり、我々もまた御先祖と同様に、この思想の中で生きていっているものでした。
道の習いごとは練習ではなく、稽古(いにしえの再現)と呼ぶことからも、この思想が長いこと浸透していることが伺えます。
道の習いごとは練習ではなく、稽古(いにしえの再現)と呼ぶことからも、この思想が長いこと浸透していることが伺えます。
そうした中での学びの姿勢は、大体において下記の様になります。
「自分は神性を持つのだから、できて当然である。できないということは、学びと鍛錬が足りないのだ。自己の責任においてできるまで取り組むべし」
「自分は神性を持つのだから、できて当然である。できないということは、学びと鍛錬が足りないのだ。自己の責任においてできるまで取り組むべし」
皆さんも、褒めて伸ばそうという話に対して、心のどこかで下記の様に思っていませんか。
「子供じゃあるまいし、大の大人に対しては認めるもので褒めるのは相手ができないと思っているからではないか」
「褒めるような甘い環境では、厳しい場面に直面したとき対処できないのでは?」
「子供じゃあるまいし、大の大人に対しては認めるもので褒めるのは相手ができないと思っているからではないか」
「褒めるような甘い環境では、厳しい場面に直面したとき対処できないのでは?」
この考えの根本にあるものは、日本人の思想から来ています。
私自身、最終的には学んでもらう人には厳しい場面でもしっかりことを成してもらうことが大切であると思っています。
でも今の日本では、ほとんどの人がそんな学び方に耐えられないのです。
そもそも今は子供に対しても褒めることをほとんどせず、結果として大人も子供も厳しい環境であろうがなかろうがやる前から揃ってビクビクしている状況です。こうした思想が崩れた環境では、まずは一旦態勢を立て直すより他は無いのではないでしょうか。
いつ崩れたのか、それは外部に神を求め人は喜びを表現することが大切という考えの西洋の思想が入り始めた明治期から崩れ始め、戦後の思想の欧米化で決定的になり現状に至るのでしょう。そうして表面的に西洋の思想が広まった一方で、日本人は今も根底に内在する神と道の思想を持っています。
だから、最終的には褒める、つまり外部からの働きかけだけでは日本人にとっては足りません。その間に、根本にある神性を自覚し生きることはそのための修練、という意識を持ってもらうことでその学び(道)が成就するのです。
現代日本は、表面と根底にある思想がチグハグであるため両面からの教育的アプローチが必要です。そういう意味では、有史以来一番「教える」ということに難しい舵取りが課される時代なのかもしれません。