結婚して夫婦で暮らすようになった3年前から、妻が居ないとき、遅くなる時はご飯を作ることが有ります。炊飯器が無いのでお鍋でご飯おにぎりを炊き、鰹節を削って味噌汁うお座のだしを取り、おかずを1,2品用意します鍋

 

独り暮らしのときは、全然気にせず外食に出かけたりコンビニやスーパーで買って食べていたりしたのですが、いざ料理をしてみると、下ごしらえから味の調整まで中々、奥が深いものです。最初はご飯が固くて食べられなかったり、味噌汁が濃すぎたりしたのですが、数をこなすうちに上手くなっている(気がします)。

味噌汁などは、作った時の気持ちが味に出てくるね、と妻と二人で話し合ったり。

 

さて先日、第64回文部科学大臣杯青年弁論大会に登壇してきました。結果は下から数えた方が早く力及ばずでしたが、そんな中でふと思ったことが有ります。

 

弁論、スピーチ、これらの話し方の学びは料理を作ることに似ていると。

人前に立ち話すことは、心を込めて創った料理(話)をお客様(聴衆)にお出しするようなもの。

 

私はコミュニケーションの勉強を「聴く」ことから始めました。

「聴く勉強」産業カウンセラーの勉強から入って学んだことは、聴くことで話し手の持っている本当の想いを引き出し、話し手の願いを応援すること。それは例えるなら、食べる側として出てきた料理を如何に美味しく味わうかを考えることナイフとフォーク料理人の腕の上達や成功を応援することグッ

 

話すことを本格的に学んだのは、トーストマスターズに入った9年前。気付きを中心とした、楽しいスピーチ、困難を克服する物語、そして話し手のモチベーションとスキルを上げるフィードバックは、さながら大人数で型を気張らずワイワイ食べる中華料理の様でした。

私はここで何度も料理を出すことで、包丁の使い方、出汁の取り方、ご飯の炊き方を学ぶ様に、話し方の基本を学んできました。

 

でも活動の中で、数年前からトーストマスターズのスピーチの在り方(派手なパフォーマンスや必要以上の盛り上がりの演出)に違和感を持ち始めた私。そう思う会員は他にも結構いるようで、何度もそんなトーストマスターズのスピーチの在り方の是非を議論したことがあります。

まさに中華料理の添加物・刺激物の強さに辟易としたのかもしれません。

 

別の分野で新たな学びをと思って参加したのが弁論大会でした。弁論とは、社会の問題を掘り下げ公に向けて主張を訴えるもの。社会の問題に真剣に取り組む話し手(弁士)と交流し、その見識と考え方、一年近くかけて下調べをし言葉を吟味する姿勢を目の当たりにしました。それは、例えるなら毎日は食べられないが一年に一度、ハレの日に食べる格調あるフランス料理。

私は参加した一度目、二度目の大会で賞を頂くことができましたが、それはフランス料理に慣れた方にとって、別のジャンルのエッセンスが入っていた私の料理はひとつの新たな可能性を持った創作料理と受け止めてもらえたからだったのかもしれません。

 

三度目となる今年の大会では、私自身が見様見真似で社会問題を捉え解釈しようとしました。でも、弁論をしっかりと学んできた他の方々に比べると、まだまだ改良の余地が見られるものであり、それが表れた結果となりました。

 

そして昨年学んだのが、鴨頭嘉人さんの主催する「話し方の学校」でした。トーストマスターズと一見似ていますが、半年の授業の中で、話すための時間は後半のみ、聴くことから始まり心の在り方を重視するその学びの時間は、まさに素材(自分の想い)をそのまま活かす日本料理の様でした。

入学時に不安そうにしていた同期の方々が、どんどん変わっていくことを目の当たりにした私は、素材(自分の想い)を引き出すことの大切さ、そしてそもそもの原点と改めて向き合うことができました。

 

日本一の話し手を目指して、そんな気持ちで学んでいる私でしたが、“話し手は料理人”そう考えることで、捉え方が変わってきました。

 

ずっと同じ料理を作ったり食べたりするだけでは、他の料理が恋しくなることもあります。その料理にない味を求めたくなることも。

 

でも、時に互いをリスペクトしつつ、自分の在り方をベースに新たなジャンルで学ぶ人が増えれば新しい創作料理が出てきます。

 

聴き手としても、ひとつの料理で舌が肥えて物足りなくなったら、他のジャンルの料理を食べに行くと新たな味を発見できます。それは、自分がグルメとなり文句しか言わなくなった、元の料理の良さの再発見にも繋がります。

 

人前に立ち話す機会が、失われつつあるこんな時代だからこそ。

 

沢山の言葉の料理に触れてみませんか。