■ホームページはアナログ人間である私のもうひとつの表現手段■
HARPER'S BAZAAR 2000.12月号
"デジタル"と対立させつつ、私たちが普段何気なく使っている"アナログ"と言う言葉は、アナロジー、つまり、類似性という言葉と語源的に近しい関係にある。
たとえば私たちはある二人の人物の顔が似ていると思うことがある。場合によっては思わず笑いだしでしまうこともある。誰も普段経験しているある種の感覚だが、いざどこがどう似ているのか説明しろと言われると、これはもう至難の業。ましてやこれから先、いくらデジタル・テクノロジーが想像を絶するような進歩を遂げても、この感覚を解析し尽くすことはないように思われる。つまり感覚としては普遍的で、たいした深みもないように思える事柄が、いわゆるデジタル思考とは最も遠いところにあるもののひとつなのである
自らを"アナログ人間"と評する鶴田真由さんは、この世に氾濫するデジタル的なモノを少しずつ受け入れながら生活している。
性急に受け入れることを決してしない彼女は、デジタルとアナログの間にある溝を強く感じている一人なのである。
「アナログというのは、時間の流れとともにあるものを先負拾っていくものじゃないですか。それに対してデジタルは、短い時間で区切っていくもの。単純に考えると、区切ることでその間にあるものが切り捨てられてしまうわけですけど、私はそればかりではないと思うんです。上手く言えませんけど、上下左右と言った立体的な広がりのようなものを消し去られてしまうと思うんですよね」
わかりやすい例で言うと、アナログ・レコードとCDの違い。CDにはデジタル処理された信号により、音が録音されている。
80年代終わりにCDが普及し始めた頃、私たちは音の輪郭のくっきりとした素晴らしいものとしてそれを享受した。しかし、何年かしてCDがほぼ完全に市場を支配した頃、懐古的な気分でアナログ・レコードを聴いてみたところ、多くの人はそこにえも言われぬ愉悦を見いだした。
その時人はそれを”温かみのある音”と言い表した。
「私にとって最も好ましいし、豊かなものを感じさせてくれるのは、デジタルでは切り捨てられてしまうものなんです。感じさせてくれるというのは、心に響くということであり、魂に触れてくるということですね。このことはもちろん音楽に限ったことじゃないんです。文章の場合は行間。お芝居の場合は”間”と言うことになるんだと思います。目には見えないところに、人が何かに感動することの秘密があるんだと思うんです」
鶴田さんの職業はいうまでもなく、女優である。
鶴田さんは、演劇一般で言われる”間”という概念を、自身の体験に引き寄せて話してくれた。
「たとえば涙を流す演技があると、大切なのは、涙がこぼれる瞬間ではなく、そこに至る無言の数秒間。笑う場合は、表現として笑顔になったり、笑い声を上げたりするまでの気持ち。私自身演技をするとき、そういうことを心のどこかに置くようにしています」
鶴田さんが大学で美術史を専攻し、卒業論文がゴッホをテーマにしたものだったことは知る人ぞ知るエピソード。
現在でも美術愛好家である彼女が好むのは、今様のモダンアートではなく、印象派あたりまでの絵画芸術。
デジタル機器など影も形もないような時代に生まれたものを、より愛するのも、彼女が自身をアナログ人間と規定する所以である。
「普段意識しているわけではないし、これは私の感覚の中だけの話なんですけど、20世紀の芸術、特にポップアートぐらいからの芸術は、それまでの古典的な芸術とは、すごく質が変わってきていると思うんです。それはコマーシャリズムだったり、大衆の欲望を統計的にとらえるマーケティングのようなものだったりするのかもしれない。そういうものを一言で言うとすれば、情報という言葉が適切だと思います。情報というものはある種記号化されたものであり、まさにデジタル的なものだと思うんです。そういうものを否定するつもりは全然ないんですけど、高度な情報の流通がまったくなかった時代に描かれたもののほうが、作り手の創作態度がシンプルだし、アナログを一つの基準として考えると純粋だと思うんです。そう言うところがより強く心に訴えてくるんだと思いますね」
大学時代からゴッホが好きな鶴田さんが、ここ数年そのよさが分かってきたのは、16世紀から17世紀にかけ描かれたオランダ絵画。
この時代のもので最近では霊妙なフェルメールの絵がもてはやされているのも、アナログの持つ神秘的な力に人々が気付き始めたからかもしれない。
「私が惹かれるのは、レンブラントなどの肖像画。光の使い方の微妙さに特に惹かれますね。ゴッホの絵にある激しさは、外目からもはっきりわかるものだと思うんです。それに対してオランダ絵画には、静かなたたずまいや静寂な空間の向こうに激しさや狂気が存在しているような気がする。表層には決して現れていない奧に秘められたものを感じる瞬間にゾクッと来ることがあって、私も大人になったのかもしれないって思いますね(笑)」
鶴田さんの言う年齢による嗜好の変化は、誰もが経験するものであると同時に、多分に生理的な変化でもある。一つの絵画作品を鑑賞するとき、鶴田さんは、その作品を画家が何歳の時に描いたものかを念頭に置くことも多いという。
たとえばレンブラントの自画像は同じ自画像でも、20代に描いたものと、60代の晩年に描いたものでは、受ける感銘がまったく違う。
しかし、その感銘は言葉で言い表しのないような神秘的なものであり、デジタルに還元することは絶対に不可能な類のものでもある。
とは言っても、鶴田さんは文章を書くときはワープロだし、パソコンでEメール交換も行う。
「当初パソコンに対してはアンチっぽい気持ちだったんですよね。だけど、使い始めると思いのほか温もりがあることがわかったんです。たとえばEメールの場合、そこには書いた人の筆跡までわかる手紙のような温もりはないのかもしれないけど、それを送る人も受け取って読む人も人間ですよね。人間というのはアナログの塊なわけで、媒介しているのはたしかにデジタルなんだけど。それをもう一度自分の中でアナログに変換しているだと思うんです。つまり、いくらデジタルな記号であっても、文脈には必ず送り手のキャラクターや感情が反映されるし、また、同じ文面でも読み手によっては受け取り方が異なるということも起こってくる。こういうことは、考えてみれば当たり前なんですけど、使っているうちたしかに実感としてあることなんですね。だから、いくらデジタルといっても、アナログの要素のまったくないデジタルなんてありえないし、そのあたりで上手く収捨選択していけば、私の中ではこれもありなんだというふうに今は思うようになりました」
鶴田さんは今年に入って、自身のホームページを開設した。
彼女がホームページを開設した動機は、有り体に言ってフラストレーションからだったという。
「雑誌に私のインタビュー記事が載ったりすると、私から見て、それはすごく多くの制約で縛られたものなんです。まず決められた字数があり、私が語ったこととして書かれている言葉も、一度ライターの方のフィルターを通したものなんですね。言葉の感覚がライターの方と大きく違っていたりすると、ニュアンスがまったく伝わらなかったりと言うこともあります」
鶴田さんのホームページに載せられているのは、その時々彼女が感じたことをつづった日記風のものや、坂本龍一さんやヒロミックスさんといったアーティストたちとの対談などである。
「日記はもちろんですけど、対談の場合でも、テープ起こしから構成まですべて自分でやります。もちろん私は女優なので演技という表現手段はあるわけですけど、その一方で自分の言葉で自分を表現したいという気持ちは確実にある。ホームページというと、書き込みなどが出来る相互交通的なものも多いかもしれないけど、私の場合は一方的な表現手段。というのは、受け手の反応に自分が影響されたくないと言う気持ちがあるからなんです。といっても、お褒めの手紙をいただいたりすると、やっぱり嬉しいんですけどね(笑)」