『近畿の高校入試』国語の要約の例。今回は10番(p. 48~52)です。関西大学高等部(関大一高ではない方)の問題。問題文には中学生に読ませるには難しすぎると思える部分があって、そこを自力で要約するのは困難でしょうから、少し説明を加えておきます。もっとも、設問を解く上で問題は無いのですが…。まぁ、問題文をしっかりと理解するために、ということで。

 

 まずは形式段落ごとの要旨まとめ。

  1.  今進行しているデジタル化は、グーテンベルクによる活版印刷術以来の「情報革命」だという。
  2.  そこで、「デジタル革命とは何か。それは本に何をもたらすか」という本質論を議論すべきだ。
  3.  情報革命を評価する場合には、得たものと失ったものの両方を見極める必要がある。
  4.  活版印刷術が普及する以前の世界では、書籍は写本であり、大勢の写本家や写学生が何か月もかけて羊皮紙に書き写し、それを教会や君主が収集した。
  5.  印刷術が普及する以前、書籍の編集出版は不十分かつ比較的まれだった。
  6.  中世におけるコミュニケーション手段は、もっぱら朗読とその聴取にあった。説教師の説教は大衆の感動を引きおこしたが、その場で消え失せ、精神文化への遺産を、ほとんど残していない。
  7.  活版印刷は、書写本を教会や王侯から市民に開放し、文学や思想、哲学などの書物を、神学や芸術のくびきから解き放った。一言でいえば、活版印刷は、書物から「聖性」を剥ぎ取り、「物質性」に置き換えた。その技術は、国民言語の形成を促し、宗教改革に弾みをつけ、巡回説教師の演説や君主の雄弁術を廃れさせた。代わって、黙読する新考知識階級と、文字を読めない大衆との分裂をもたらした。印刷術は、教会や王侯による「知の寡占」を破ったが、市民社会のなかに知の断裂を生み出したのだ。
  8.  書物の「物質性」への移行を物語る制度変更。活版印刷で大量に書籍を頒布できるようになったことで、権力による予防的な「検閲」が行われるようになった。権力は刊行の時点で、内容にまで立ち入ろうとする。
  9.  ではその後、現在まで「グーテンベルク後」は続いているのか。
  10.  そうではない。デジタル情報革命と、約百年前の「アナログ情報革命」を比較する。「アナログ情報革命」が起きた一八八七年から一九〇六年までの「奇跡の二〇年」の間に、アナログレコード、フィルムカメラ、映画、無線電信、写真電送ラジオ放送などが登場した。では、「アナログ情報革命」で何が生れ、何を失ったのか。
  11.  「アナログ革命」によって、写真と映画、レコードなどの形で、イメージや音を複製できるようになった。ヴァルター・ベンヤミンは、これらの複製技術によって、オリジナル作品がもつ〈いま‐ここ〉という一回性=「アウラ」が衰退すると考えた。
  12.  真正な芸術作品の比類ない価値は「儀式」に基づいていたが、複製技術は、芸術を儀式から解放し、政治を土台に据えた。芸術作品の礼拝価値は衰え、展示価値に絶対的な重みが置かれる。ベンヤミンは、複製技術がいかに人間の統覚と反応を変えたのかを説明し、ファシズムによって複製技術が戦争に動員される事態までを見通していた。
  13.  「デジタル革命」は何をもたらすか。デジタル化は、本の「物質性」の消滅をもたらす。それは、積極的には「物質性」の制約や束縛からの解放であり、消極的には知識の情報化・断片化である。書物は単体ではなくなり、組み換えが可能な情報のモジュールとなり、通信技術のb(高度化)・低廉化と相俟って、「いつでも、どこでも」入手可能なものとなった。電子書籍では、保管する空間が要らず、検索機能の強化に伴って、必要な情報を必要な書籍から探し出すことができるようになった。
  14.  他方、デジタル化は、だれもが情報を送受信できる社会を生み出した。しかし、情報革命においては必ず、便利さと引き換えに失われるものがある。第一には、出版社や取次といった文化装置への影響だ。
  15.  この場合、費用や効用にとらわれて、従来の(出版社や取次などの)文化装置が培い、伝承してきた「知の基盤」を見損なってはいけない。編集や校閲もされない個人の電子出版が大量に出回れば、高質の出版が「デジタルの海」に沈むだろう。出版社や著者たちは、「紙の本」が果たしてきた文化装置を、ネット上に構築できるかどうか、議論すべきだ。とりわけ、子どもをデジタル環境に住まわせる電子教科書の功罪については、導入前に議論を尽くすべきだろう。デジタル化は、本ばかりではなく、人間そのものを変容させる力をもっている。
  16.  「書籍」に対する「紙派」と「電子派」は鋭く対立している。紙がデジタルの奔流に押し流される前に、原点に返って自分の中の「紙派」と「電子派」の議論を白熱化させることが、本の将来を考える第一歩だ。

 結構情報量の多い文章ですね。でも、「デジタル化」に関する筆者の主張、という面から全体の要旨をまとめると、こんな感じでしょうか。

 「情報革命」としての書籍のデジタル化については、これによって獲得されたものと失われたものの両方を見極める必要がある。デジタル化は、書籍を「物質性」の制約から解放するとともに、だれもが情報を送受信することを可能にした。だが、このことで従来出版社や取次などの文化装置が培ってきた「知の基盤」が損なわれるなら、出版の質が確保できなくなるだろう。「書籍」に対する「紙」と「電子」の違いについて熟考しなければならない。

 情報通信技術の発展のデメリットにも目を向けよう。誰もが情報を発信できるようになったのはいいけど、その影響で出版社や取次、書店がピンチ。これらの産業こそが出版の質を守ってきたという面もあるのだから、このままでは出版の質が保てなくなる恐れがあるよ…といったところですかね。

 

 設問には、40字以内でまとめさせるものが2題。少し工夫がいるのは問4です。

傍線部Ⅰ「活版印刷が普及する以前の世界で、本はどのような存在だったのか」とあるが、筆者は「本」をどのようなものであったと述べているか。

 第4段落~第7段落の内容からまとめます。書くべきことのヒントは、第7段落。先の要約文から抜き出すと、

  • 活版印刷は、書写本を教会や王侯から市民に開放し、文学や思想、哲学などの書物を、神学や芸術のくびきから解き放った
  • 活版印刷は、書物から「聖性」を剥ぎ取り、「物質性」に置き換えた。
  • 印刷術は、教会や王侯による「知の寡占」を破ったが…

とあるところ。活版印刷術が書物に与えた変化がこれ。「活版印刷が普及する以前の世界で、本はどのような存在だったのか」まとめろというのが設問ですから、ここから、

  • 書物は神学や芸術のくびきにつながれていた。
  • 書物には「聖性」があった。
  • 書物は教会や王侯による「知の寡占」の一環だった。

とまとめられますね。だから、解答にはこの3点が入っていることが必要です。自己採点する際に気をつけてほしいところです。

 蛇足かもですが、言葉の説明を。まず、「くびき」というのは、漢字で「頸木」「首木」と書きますが、馬などを馬車などにつなぐ道具です。ここから、自由を束縛するもの、という意味で使われます。ここではこちらの意味ですね。つまり、活版印刷術以前の書物は、主に神学とか、芸術に関するものしかなかった、くらいの意味。

 「寡占」は経済学用語。2学期に公民でやります。少数の大企業が、特定の商品の生産や販売を支配している状況です。パソコンのOSとか思いつきますよね。1社で支配していたら「独占」といいますが、区別せずに使うこともよくあります。ここでは、印刷術の普及以前、書物を所有できるのは教会や王侯だけで、つまり、その時代、教会や王侯が「知」を「寡占」していたということだ、ということ。印刷技術は「知」を民衆に開放したのだ、といいたいわけ。この説明は歴史でおなじみですね。

 

 さて、私が受験生に意味が分かるのかな? と思う部分。ヴァルター・ベンヤミンを引いて論じているところです。形式段落でいうと、第11段落から第12段落にかけての部分。少し長いのですが、ここは本文を引用しましょう。

…前略…。ベンヤミンは、オリジナル作品のもつ〈いま―ここ〉という一回性を「アウラ」と呼び、複製技術時代にはこの「アウラ」が衰退すると考えた。

 真正な芸術作品の比類ない価値は「儀式」に基づいていたが、複製技術は、芸術を儀式から解放し、政治を土台に据えた。芸術作品の礼拝価値は衰え、展示価値に絶対的な重みが置かれる。ベンヤミンは、劇場公演される演劇と、セットで撮影し、後で編集する映画とを比較し、複製技術がいかに人間の統覚と反応を変えたのかを説明した。そして政治を耽美主義化するファシズムが、最終的に、「所有関係を保持したまま、現代の技術手段をすべて動員できる」戦争の一点を目指すと結論づけた。…後略…。

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけて進展した「アナログ情報革命」について、すなわち、アナログレコード、フィルムカメラ、映画、無線電信、写真電送、ラジオ放送などが登場することで、芸術と社会にどのような変化がもたらされたか、を論じている部分です。

 文中の「統覚」と「耽美主義化」には次のような注がついています。

  • 統覚…心理学で、表象(心に思い浮かべられる外的対象像)が意識に入ってはっきりと知覚されること。
  • 耽美主義…美に最上の価値を認め、それを唯一の目的とする芸術や生活上の立場。

でも、この部分の理解にはあまり役立ちませんよね。特に、赤く色を付けた部分なんか、これだけで意味分かります? この部分の文章は、この問題集一番の難物かも。

 ヴァルター・ベンヤミン(1892年~1940年)は、第二次世界大戦前に活動したドイツの思想家です。ここで引用されている議論も、「複製技術」が芸術や社会に与えた影響について論じたものとしては古典といって良いでしょう。ベンヤミンの著作の多くは筑摩書房から出ている「ちくま学芸文庫」に入っていますので、手に入れるのも難しくありません。でも、中学生で読んでいるのはさすがに少数派では? みなさん、読んだことあります? まあ、普段からこんなの読んでいるなら、『近畿の高校入試』なんかで苦労しませんよね。私にはベンヤミンの思想の解説なんて到底無理ですが、まあ、宿題の参考になる範囲で、ということで少し説明してみます。

 まず「アウラ」。これ、ドイツ語なので「アウラ」ですが、日本語で「オーラ」といっているのと同じ言葉です。日本語の方は英語由来ですかね(もともとはギリシャ語だそうですが)。「オーラ」という言葉は、テレビのオカルト番組なんかでは「人の体から発するエネルギー」ぐらいの意味で使いますが、ここでは「オーラのある芸能人」のような使い方をする場合の、「圧倒的な存在感」、ぐらいの意味が近いと思います。

 絵画なんかを考えてください。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。この絵です。みなさんも、一度は見たことがあるでしょう。

最後の晩餐 - パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集

『最後の晩餐』はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の壁画です。今なら、画集等でこの絵がどんな絵か確認するのは簡単ですよね。インターネットで画像も簡単に手に入ります。この図もインターネットで手に入れました。でも、写真が無かった時代はどうでしょう? 模写では、別の絵になってしまいます。どうしてもこの絵を見る必要があれば、この絵がある教会、そう、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に行かなければならなかったのです。つまり、そこにしか無いわけ。これが「〈いま―ここ〉という一回性」。それが、写真印刷技術が実用化することで、いつでも、どこでも鑑賞できるようになった。そのため、「そこにしか無い」、「そこでしか見ることができない」という「アウラ」が「衰退」してしまった、ということですね。

 続けて『最後の晩餐』を例に説明します。この絵は教会の壁画です。書かれてから今日まで、教会でこの絵がどのように扱われて来たか、についての知識は私にはありませんが、教会の設えの一つとして、しかるべき扱いをされてきた―現在もされている―ことと思います。誰もが気軽に、たとえばお菓子を食べながら寝転がって見るようなものではなくて、教会の活動の一環を形作る、宗教的な意味のある、ある意味で「拝むべき」ものだったはず。これが「真正な芸術作品の比類ない価値は『儀式』に基づいていた」で表現されていることです。「礼拝価値」も同じ。ここで「『儀式』に基づく」と言っているのは、たとえば『最後の晩餐』が宗教的な意味を持つもの、教会の一部として、それにふさわしい扱いを受けることで、特別な意味を持つようになる、というようなことを言っているわけです。特別な扱いを受ける、「礼拝」の対象としての価値、つまり「礼拝価値」。だから、不特定多数の多くの人に広く公開する必要なんかなかったのですね。まあ、写真印刷技術がなければ、公開したくてもできないわけですが。そんな考えすら思い浮かばないというべきですかね。

 ところが、写真が大量に印刷されるようになると、『最後の晩餐』も写真が大量に印刷されて、世界中の誰もが見られるようになります。それとともに、評価の基準も変化するわけ。「キリスト教」「教会」という場から離れて、作品の美しさとか、歴史的な意義とかが評価の基準になる。ルネサンス絵画の傑作として…うんたらかんたらで…世界的に有名な絵だから、ものすごく価値があるんだ、という具合。これが「展示価値」。多くの人に見せることに価値があるようになっていく。

 そこにしかない、唯一のもの、という価値が重んじられる時代・社会から、誰もが知っている、見られる、という価値を重んじる時代・社会ということですね。ひどくおおざっぱなまとめですけど。では、そのことはどうして「複製技術は、芸術を儀式から解放し、政治を土台に据えた」ということになるのか? 「政治」という言葉が難物ですが、ここでは日常で「政治と経済」というような形で使うのとは違う意味で使っているようですね。ヒントになるのが、「政治を土台に据えた」と同様の内容について表現を変えて述べている、次の下線部。

ベンヤミンは、劇場公演される演劇と、セットで撮影し、後で編集する映画とを比較し、複製技術がいかに人間の統覚と反応を変えたのかを説明した。

「映画が普及することで、演劇というものに対する人々の考え方がどのように変化したか」、というぐらいのことですね。先の「政治」というのは、このような、社会的に共有される「統覚と反応」すなわち、認知とか理解とか価値判断のあり方、を変化させるような「人々の営み」といったものを指していると考えられます。みんなが知っていて見たがるから価値があるわけですが、なぜそうなのか? それはレオナルド・ダ・ヴィンチが書いた、ルネサンス絵画の傑作だから。では、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画はなぜ素晴らしいのか…。いろいろな説明があるでしょうが、「これには価値があるのだ」という判断の基準が変化すれば、それによって人々の、そのものに対する扱いも変化する。つまり、価値判断をめぐる人々の営みが「政治」で、この「政治」が芸術への評価の根拠になる、ということです。こんなことはいつの時代にもあったことでしょうが、複製技術が発達した時代にはとくに著しいのだ、ということでしょう。

 最後に色をつけた文。ここが一番の難物では?

そして政治を耽美主義化するファシズムが、最終的に、「所有関係を保持したまま、現代の技術手段をすべて動員できる」戦争の一点を目指すと結論づけた。

 「政治を耽美主義化するファシズム」というのは比較的分かりやすいかと。ベンヤミンがドイツの人だったことを思い出してください。ナチ党政権が「ドイツ民族の使命」とか、「優秀なアーリア人種」とか、当時のドイツ人を熱狂させるような言葉で国民を扇動し、戦争に導いていったことをこのように表現しているのでしょう。ここで「耽美主義」というのは、注にあるような、「美に最上の価値を認め、それを唯一の目的とする芸術や生活上の立場」というよりも、むしろ「人々を熱狂させる」ぐらいの意味で使っているのでしょうね。注の付け方にもう少し工夫が必要なところだと思えます。

 次に「所有関係」。注をつけるなら、この言葉にこそ必要だと思うのですが…。これはもと社会主義用語(「社会主義」は、とりあえず、「経済格差や搾取の無い社会を作ろうという考え」ぐらいの意味で受け取っておいてください)。社会科学とか評論では現在普通に使われているのでしょうが、でも、こんな言葉を知っている中学生、というのはそんなにいるのですかね? みなさん知ってます? ここでも詳しくは説明しません(できません)。大雑把(過ぎるの)ですが、資本家と労働者、という二つの階級からなる、資本主義社会のあり方、ぐらいの意味だと思ってください。

 資本家というのは、「生産手段」を持っている人です。「生産手段」というのは、生産を行うためのもの、例えば土地とか、製品を作る材料や機械とか、これらを用意するためのお金(ここでの材料・機械・お金を資本といいます)を所有している人。一方、労働者は、「生産手段」を持っていない人。「生産手段」を持っていないので、労働者は資本家に雇われないと、何も生産できません。だから、労働者は資本家に雇われないと生活して行けない。こんな関係が成立している社会を資本主義社会といいます。

 さて、労働者は資本家に雇われて、いろいろなものを生産します。資本家はこれをお金に換えて儲ける。そして、その一部を労働者に賃金として支払うわけです。ここで、社会主義ではこう考えます。生産するのは労働者だ、だから、生産されたものは本来、生産した労働者のもののはずだ。なのに、生産物は資本家のものになり、本来の所有者であるはずの労働者にはごく一部しかまわってこない。つまり、労働者は資本家から不当に利益を取り上げられている、搾取されているのだ! こんな社会のありかた、すなわち「所有関係」は不正だ。だから、労働者は立ち上がって現在の社会(資本主義社会)を打ち倒し、資本家による搾取の無い社会をつくるのだ! というわけ。

 すごく大雑把ですが、中学生がこの一文を理解するぐらいなら、この程度で良いでしょう。で、先ほどのナチ党ですが、ナチ党の日本語正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」です。ナチ党は社会主義ではありませんが、資本主義社会の矛盾、つまり、資本家に労働者が搾取される社会のしくみ=「所有関係」をただす、というようなことも言っていたわけ。ナチ党が政権を獲得する過程では、そんなナチ党の政策を宣伝するのに、ラジオや新聞、雑誌、つまり「複製技術」が大きな役割を果たしたんですね。でも、結局ナチ党政権は資本主義社会の矛盾を改善したりすることなんかなくて、つまり「所有関係」には何も手を付けないまま、ラジオや新聞、雑誌などの「複製技術」をふんだんに利用して国民を扇動し、国力のすべてを動員するような戦争を引き起こしてしまった…。これが「『所有関係を保持したまま、現代の技術手段をすべて動員できる』戦争の一点を目指す」の意味。

 

 この関大高等部の問題、設問自体は無理のない問題だと思います。文章も、設問に関連する部分は中学生が読んで十分理解できるはず。でも、後半部分はこんな感じの文章が続いて、ほとんどの受験生の知識では歯が立たないでしょうから、この部分はスルーして、設問に関連する部分だけ落ち着いて読めた受験生が首尾よく解答できた、ということですかね。でも、そんな「スルーする部分」を見極める力が必要な問題文というのは、入試問題としては少し難ありでは? 

 

 結構長くなりました。ここまで読んでくださった方、お付き合いありがとうございます。