昨日から、つらつらと綴っているLGBTについての話の続きになる。
能登半島で震災が起きた後、避難所での話である。
いわゆるつり投稿(興味を持たせて読んだ人の数を増やすための煽り投稿)なのかもしれないが
「性自認女性の人には(見た目が男性であっても)生理用品を配ってほしい」
というような投稿があった。
理由は気持ちの安定のためだという。
これを見たとき、反射的に
「何考えてるの?実際使う人のこと考えて譲りなさいよ」と
正直腹立ちを覚えたのは否定できない。
だが、もしこれを書いた人が実在し、
本当にそう思っていたとして、
どうしてこれを投稿せずにおれなかったのか、
この言葉にはどういう心理が隠されているのか
冷静になった時、少し考えてみたくなったのだ。
「私は女性である」と外からも認めてほしい
→今まで、あまりにもそのことがないがしろにされたことがつらかった
「私は女性である」というシンボルがほしい
→今まで女らしいものを持つことが公然とできなかった
自分が女であるという拠り所がほしい
女性としての権利を認めてほしい
まず、心の表面的な部分ではここら辺のことがあげられるだろうか。
もう少し、その人に迫ることができないか。
その人になり切ったつもりでもう少し考えてみた。
差別はあってはいけないということを世の中に示したい
世の中のルールに苦しんでいる人がいると知ってほしい
私は被害者だ
私は悪くない
何となくその人に憑依したような気持で
感じていたら↑のような気持ちも浮かんできた。
他人の心なんて、目の前にいる親の気持ちですらよくわからないのだから
会ったことも話したこともない人の気持ちなんて絶対にわかりっこない。
絶対にわかりっこないから、思考を停止する。
感情に流される。
それでは反目しか生まれない。
LGBTをめぐる問題について
例えばトイレをどうするか、お風呂をどうするか
制服をどうするか、世の中で仲良くお互い気持ちよく暮らしていくためにはどうするか。
考えれば考えるほど混乱する気もするし、
誰かを思いやれば、誰かが我慢を強いられるような気もしてくるのだが
そこで思考を止めるのがいちばん問題なのだと思う。
わからないなりに相手の椅子に座ってみて
一度自分と切り離して、相手の要望の奥にある不安や欲求に
触れていく(それが現実的にかなえられないとしても)。
そのことで、妥協するポイントを探していく。
私達にできるのはそれくらいだし、
それこそがまずクリアしなくてはならない一歩なのだろうと思う。