武満徹 セレモニアル

マーラー 交響曲 第9番 

ジョナサン・ノット指揮  東京交響楽団 (笙 宮田まゆみ)

ミューザ川崎シンフォニーホール 2025年11月23日

 

 

昨日、ジョナサン・ノットの、(ジルベスターコンサートをのぞけば)音楽監督としては最後になる、東京交響楽団の本拠地、ミューザ川崎での公演を聴いた。

コンサート前の午前中、いつもどおりにスポーツクラブに泳ぎに行った。写真は、クラブにむかう途中の寺院で、紅葉があまりに見事だったので、スマホで撮影したもの。まことにとって付けたようで恐縮だが、昨日のメインの曲、マーラーの九番の演奏の印象が、この紅葉にそのままかぶさる。晩秋。落葉を前に、やや怖いくらいに鮮やかに生命のほとばしりを見せている木々。

 

ノットは、東京交響楽団の音楽監督に就任した2014年4月、就任披露演奏会で、今回と同じく「セレモニアル」とマーラーの9番を演奏した。私は、どちらかというと指揮者でコンサートを選ぶ方で、しばらく、スクロヴァチェフスキやインバルの演奏をよく聴きにいっていたが、いずれも在京オケの首席を退任していて、さてどうしたものかと漠然と思っていた頃だった。ノットの指揮する演奏は初めてだったが、その九番の演奏に、目が覚めるような感激をした。以来、ノットと東京交響楽団の公演を中心に、クラシックのライブを聴いてきた。

私がマーラーを聴くようになったのは、有名な、バーンスタインとベルリンフィルの九番のライブを聴いてからだが、しばらくして、バーンスタインとは全く対照的な、ブーレーズとシカゴ交響楽団の演奏も好きになり、よく聴くようになった。私は、マーラーの音楽を勝手ながら、「諸行無常」として理解している。その点、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」のベートーヴェンとは、真逆だ。「諸行無常」というと一般には諦念につながる観念だろうが、マーラーの場合は、「世は無常」と知りながら、現世への未練が断ち切れず、「諸行無常」が「腸ねん転」をおこして、苦悶しているといった風情に、見える。でもまあ多分、ヒトはみな、そんなふうに大なり小なり、のたうち回って、最後を迎えていくんだろうと思っていて、マーラーがウケル理由も、その辺にあるんだろうかと、思っている。

バーンスタインのライブは、まさに七転八倒の苦悶劇で、マーラー不感症だった私のような人間さえも、有無を言わせず、マーラーの世界に引き込んでいく圧倒的な名演。その後、機会あるごとにマーラーの九番を聴いていたが、バーンスタインによる「刷り込み」は強烈で、いずれも、可もなく不可もなくの印象だったが、たまたまCDで聴いた、ブーレーズの「静的」な演奏は「眼からうろこ」だった。(シカゴ響のニュートラルな響きを使って)曲想と曲の構造を明晰に再現してみせることで、この曲の訴えようとすること、私に言わせれば「無常観」をくっきりと浮かび上がらせている。バーンスタインがマーラーと一体化して思いのたけをぶつけてくるのに対して、曲そのものを明るい照明のもとに明晰にうかびあがらせて、マーラーの意図を曲そのものに表現させる。ノットの演奏は、同じ方向性で、「これだ、これだ」と、一楽章の冒頭を聴いただけで、体がぞくっとしたのを覚えている。

武満徹の「雅楽」との組み合わせも秀逸だと思った。武満には、「秋庭歌(しゅうていが)」という雅楽の傑作があり、私は好きで実演も聴いているが、「セレモニアル」は、この「秋庭歌」のエッセンスのような曲だ。聴いた方はお分かりのとおり、天に立ち上るような、笙のかそけき響きを中心に、秋の枯れ葉が舞い散るように音が立ち上がり消えていく音楽で、九番の四楽章の終結部と二重写しになっている。演奏会についてのエッセイであるのに、冒頭に、私の撮った、晩秋の紅葉の写真を載せたのは、ノットがこの組み合わせから描き出そうとした、と私には思われる世界を感じてほしかったこともある。

 

あれから12年。演奏を聴きながら、自然に、ノットと東響の演奏の数々を思い浮かべていた。コロナ禍の中でのノットの「ビデオ指揮」など、忘れがたい思い出も多い。平行するこの10年ほどの、私自身の私生活上の移り変わりや心境の変化なども思い浮かべていた。そして、実をいうと、私自身はここのところマーラーから遠ざかっていて、最近では、カーチュン・ウォンの九番を聴きに行って感心した程度なのだが、今日の演奏を聴いていて、マーラーに夢中だった頃の記憶も鮮明によみがえってきた。特に、四楽章は、いつ聴いても、走馬灯のように過去の思い出をたどってしまう。マーラーが死を予感して書いた音楽ということが納得できる。

12年前の演奏のことは、全体の印象くらいしか記憶にないのだが、昨日の演奏で感じたのは、静的な「無常観」よりも、むしろノットの、常に前に突き進もうとする、強い意志だった。第一楽章は、予想外に静かな展開だと思ったが、続く二、三楽章がすさまじかった。ステージ上に嵐が吹き荒れるようで、ノットがまるで阿修羅のように見える。さすがの東響も嵐に振り回されて、脱落寸前。と、三楽章の終了からほんの一呼吸おいて、四楽章が始まった。この「間(ま)」が絶妙だった。マーラーの「無常観」を、紅葉のその真っ盛りを、生命が最後に見せる、輝くような美しい瞬間として、表現しているようだった。曲が終了した後の沈黙も、すべてが終わりではなく、次の春への「眠り」のように感じられた。

 

いつも、いまと未来を見ている。そんな、かわらないノットの姿勢に感銘を受けました。音楽監督ノットと東響の演奏を聴くのは、あと一回。年末の第九。楽しみです。