あまり、マーラーを聴かなくなって久しい。

 

先日、小澤征爾氏が亡くなったが、小澤氏のブルックナーを聴いて、ブルックナーが好きになり、録音では、チェリビダッケやスクロヴァチェフスキを中心に聴いている。

スクロヴァチェフスキは、生前、読売日本交響楽団との演奏を何度も聴く機会があり、もう少し、ブルックナーに「目覚める」のが遅れていたら、間に合わなかったので、実に幸運だった。その一方、チェリビダッケが生きていた頃は、ブルックナーに全く関心がなく、ナマで聴いたら、さぞ、凄い演奏だったんだろうと、思いながら、いつも聴いている。御存知かと思うが、チェリビダッケは、全くマーラーを認めておらず、スクロヴァチェフスキも、たぶん、全くマーラーを指揮していないと思う。

この二人を中心に、ブルックナーを聴き始めてから、マーラーに関心がなくなっていったのだから、この二人の「音楽観」に、自分が近づくというか、引き込まれていったことが、影響しているのだろうか......

それはともかくとして、ひとつ、はっきりしているのは、マーラーの、派手でシニカルな「芸風」が、歳を取るにつれて、だんだん、うっとうしくなってきたことだけは、確か。聴き終わるとくたびれている。ブルックナーは、悪く言えば、「金太郎あめ」で、曲想も全体の構成も、おんなじことの繰り返しだが、聴き終わると、必ず「充足感」が残る。ということは、単に、歳を取って、エネルギーが無くなったというだけのことか.....

 

今回、カーチュン・ウォンという指揮者に興味があり、久しぶりにマーラーを聴くことになり、以上のような、どうでもいいことを考えつつ、これまた、久しぶりに、かつてよく聴いた、レナード・バーンスタインのマーラーを聴き直した。改めて気づいたのは、九番以外のシンフォニーに、自分が興味を失っていること。ファンに怒られそうだが、マーラーは、九番だけあれば、それで十分。(私の理解した)この人の言いたかったこと、表現したかったことは、ここで、初めて言い尽くされて、そして、終了している。

あえて乱暴にまとめると、日本の古典文学風に言えば、彼が言いたかったのは、「この世は無常」ということ。それが、彼の場合、この世への未練が、ぜんぜん断ち切れず、それでも「無常」を受け入れようとして、まるで「腸捻転」をおこしたように、ねじくれた世界が延々と展開していく。「復活」と銘打った二番や、五番のラスト、八番などは、派手派手しい「嘘」。自分でも気づいていた、その「嘘」をやめて、正直に、思いのたけをぶつけて、そして、砕け散ったのが「九番」、と私は思っている。少なくとも、バーンスタインの、特に、ベルリンフィルとの、有名な、ライブ演奏から聞こえてくるのは、そんな、マーラーの「本音」。この演奏を聴くまで、私は、マーラーは、何が良いのか、さっぱり分からなかった。逆に、この演奏を聴いてしまうと、他の演奏は、どれも、何も語っていないようにしか、きこえてこない。おそるべし、バーンスタイン。

 

そんなわけで、今日も、きっと、聴き終わって、無いものねだりの欲求不満で終わるんだろうと、あまり期待もせずに出かけたが、結果は意外なものだった。

カーチュン・ウォンは、この曲について、ユーチューブで、「生命が始まり、それが終了していく様をイメージしている」といったことを話していた。さて、どういうことなんだろうと思ったりしたが、まず、第一楽章。バーンスタインの、まさに「腸捻転」の、悶絶しまくりの世界とは、ぜんぜん違った、一番「巨人」で描かれる、困難に立ち向かう、生命の躍動といった展開。なるほど。多くの演奏は、この一楽章に思いきり力を注ぎながら、空振りになるような展開だが、ウォンは、力を抜いた自然体。美しく、楽しい。でも、そんなに面白くはない。はて、これで、マーラーを聴く意味があるのか?その後も、「健康」な展開が続く。正直に言おう。二楽章の途中で、一瞬、居眠りをしていた。そして、最終楽章のはじまる前、ウォンは、じっくりと間を置き(短い休憩を入れたといっても良いくらい)、指揮棒を指揮台の前に置いた。両手のしなやかな動きに導かれて、ずっしりとした弦のうねるような音の波が、次から次へと襲いかかってくる。バーンスタインの演奏のように、ここに至っても、性懲りもなく、この世への未練が捨てきれないマーラーでなく、この世に残す、満足も喜びも悲しみもさびしさも、すべてを受け入れようとするマーラーが、そこにいた。

この世は無常。それ以上でも、それ以下でもない。その「自然の摂理」を受け入れて、自分も、その「無常」のひとつとして、ここで終わる。この感性は、きっと東洋のもの。文字通りの「諸行無常」。ひょっとしたら、マーラー本人は、たどり着けなかった世界。ウォンが、温かく「引導」をわたしている。音のうねりに引き込まれたまま、時が止ったように感じ、気が付くと、生命が息絶えるように、曲は終了していた。だが、「演奏」は終わっていなかった。1分だろうか、ひょっとして、2分?ウォンは、ちょうど、仏徒が祈るように、胸に手を合わせ、じっと瞑目していた。まるで、死者の成仏を祈るように。この、充足感.....

 

こんなマーラーも、ありか?やっと、バーンスタインの「縛り」が解けたような気がした。

カーチュン・ウォン、聞きしに勝る、才能。

 

 

マーラー交響曲九番

カーチュン・ウォン指揮  日本フィルハーモニー交響楽団

 

2024年5月11日 サントリーホール