先日、小澤征爾氏の死去の報が、流れた。

いったい何回、氏の演奏に接する機会があったのか、私は、コンサートや芝居のチラシやチケットをマメに取っておくほうなので、調べてみた。

 

 

1975年12月24日  ベートーヴェン 交響曲九番 新日本フィルハーモニー交響楽団他 NHKホール

 

2003年3月24日  モーツァルト オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」 ウィーン国立歌劇場管弦楽団他 ウィーン国立歌劇場

 

2005年2月21日  「スマトラ沖地震津波災害 復興支援チャリティコンサート」 バッハ「G線上のアリア」 特別編成オーケストラ 東京国際フォーラム

 

2009年12月8日  ベートーヴェン ピアノ協奏曲一番 ブルックナー交響曲三番 上原彩子 新日本フィルハーモニー交響楽団 埼玉会館

 

2011年8月27日 バルトーク オペラ「青ひげ公の城」 サイトウ・キネン・オーケストラ他 まつもと市民芸術館

 

 

たった、これだけだったのかというのが、正直なところ.....

だから、熱心な聴き手でも、ファンでもなかったし、ここ10年、事実上、指揮活動から身を引いていたので、大きなショックを受けたわけではないが、改めて、死去の報に接すると、大きなものを失ったという喪失感にとらわれる。

 

写真に載せた、ベートーヴェン九番のパンフレット。これが、ほとんど初めて行く、クラシックのコンサートだった。大学生の時。今は、「年末のダイクなんて」と斜に構えるような、すっかりスレた、「クラオタ」になってしまったが、当時は、クラシックといえば、ベートーヴェンで、クラシックの最高峰は「合唱」で、わが日本の一流の指揮者といえば小澤征爾で、決まり!だった。

実に久しぶりに、パンフレットを手にとり、あの時代の空気を、手に取るように思い出した。演奏そのものは、記憶の彼方だが、会場を包む高揚感と、「小澤征爾を聴けた」という興奮だけは、ありありと思い出せる。

 

小澤氏のその後の世界的な活躍は、御存知のとおりだが、私の方は、クラシックから遠ざかるような時期もあったりして、その華々しい姿を、はるか遠目に眺めているような感じだった。

ところが、偶然も重なって、氏のキャリアの頂点ともいえる、ウィーンの地で、その活躍を「目撃」することとなった。2003年3月の「コシ・ファン・トゥッテ」。 

バチ当たりと言われそうなのを覚悟のうえで、あえて申し上げると、モーツァルト好きの私からすると、文句なしに素晴らしいとは言えない結果だった。スマートというか、ある意味ずるい指揮者なら、ウィーンフィルにまかせて、流れを作って済ませるようなところも、小澤氏は誠実にマジメに詰めていて、それがどうも、しっくりといっていないような、なんだかもどかしいような、演奏だった。

 

小澤氏のつくる音楽に、本当に魅かれるようになったのは、だいぶあと、そのブルックナーの録音に接してからだった。これは、我ながら、意外なことだった。その「体験」は、こちらに書いたとおりで、実に幸運なことに、地元、埼玉会館のベスト席で、小澤氏のブルックナーを聴くこともできた。文句なしに素晴らしい。世評は特に高くもないようだが、私は、小澤氏のブルックナーは、作曲家・指揮者の互いの「純」な資質が共鳴して、あえていえば、「日本人の演奏するクラシック」の最高峰のひとつだと思っている。

 

幸運といえば、 2005年の「復興支援チャリティコンサート」 も、小澤氏が出演するかは、当日まで分からなかったし、演奏に接した最後となった、サイトウキネン・フェスティバルも、前々日、前日とも、小澤氏はキャンセルで、ほぼ諦めていたものだった。四回の公演の、初回と、私が聴いた最終日だけ、何とか無理を押して、氏は指揮台に立ったというのが、実態のようだ。少なくも、オペラについては、氏が指揮した、最後の演奏となってしまった。

演奏は、本当に素晴らしかった。サイトウ・キネン・オーケストラが色彩感にあふれ、「第五の扉」で見上げるように壮大なクライマックスを作り出す。ライブCDが出されていて、当日の思い出ととともに、私の宝物のひとつとなっている。

 

1975年のコンサートのパンフレットに、福永陽一郎氏が、「日本人指揮者・小澤征爾」というエッセイを載せていて、こんな一文がある。

「日本に生まれたというハンディキャップのすべてを、プラスの方向に役立たせることができたという点が、彼の才能なのである」

様々な含みを込めた言葉なのだが、一点、私が強く共感するのは、日本には、ヨーロッパのような、クラシック音楽の演奏様式の伝統は(当然)なく、逆に、伝統がないからこそ、師の斎藤秀雄による「斎藤方式」と呼ばれる優れた指揮法が生まれ、それを体現した小澤氏が、日本人の感性による演奏を創り出す、稀有な才能を持っていたとするところだ。それは、(このエッセイが書かれた1975年には、存在していなかった)サイトウ・キネン・オーケストラにも、言えることではないか。

 

さて、タイトルの意味だが、これは、自慢話でもなんでもなく、むしろ、気恥ずかしいような思い出だが、2003年、ウィーン国立歌劇場で小澤氏の振るオペラを観た翌日、ウィーン空港で、搭乗を待っていて、ふと、わきを見ると、小柄な人物がひょっこりと立っている。小澤征爾だった。

「あ、小澤さん」と、いま、思い出すと赤面してしまうのだが、気安く声をかけてしまった。言い訳すると、そういう雰囲気の人なのだ。「オペラ見ました」と言って、思わず手を出すと、すっと握ってくれた。思いのほかに、小さい、そして柔らかい手だった。

「あ、そうですか」

そして、すぐに、氏はパリ行きの搭乗口へと向かい、周囲には誰もいなくて、私は、ひとり、見送りをしているような気分だった。

 

あの温かく柔らかい手の感触は、まさに、その手がつくりだす、誠実で繊細な音楽につながっていたのだと、いま思う。