オペラを観て、言葉本来の意味で、鳥肌が立った、つまり、戦慄したのは初めてかもしれない。2月12日、東京二期会の「カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師」、東京文化会館での公演。
思わず鳥肌が立ったのは、このシーン。
ご存知の通り、この二つのオペラは、どちらも、上演時間が短いことと、不倫がらみの刃傷沙汰をリアルに描いていることから、セットで演じられることが多い。「ヴェリズモ・オペラ」というやつで、私はこういうのは苦手で敬遠していた。ところが、最近オペラから遠ざかっている私の耳にも、賞賛の声があちこちのブログや記事から届くミキエレットという演出家の、ロイヤルオペラで制作した評判のプロダクションの「日本版」とのこと。それならばと、久しぶりのオペラ見物となった。
このシーンの直後、画面手前に立つ亭主は、劇中劇の舞台上の妻にナイフで襲いかかり、かけつけた情夫もろともに、ナイフで刺し殺してしまう。このオペラは「回り舞台」になっていて、画面左端にあるドアの向こうは楽屋。ついさっきまで、そこで亭主は、浮気する妻の妄想にかられていたのだ。ドアの向こうの舞台にいるはずの妻が現実となって現れ、からかうかのように舞台上の演技を続ける。その自ら生み出した妄想?で、亭主は嫉妬と怒りでブチ切れそうになる。くるりと舞台が回ると、妄想の世界からドアを開けて、亭主は現実の世界に乱入して、悲劇がおこる。
あな、おそろしや。イタリアのオペラは血の気が多くて、やっぱり苦手…と改めて思ったが、この日、本当に恐ろしかったのは、この劇中劇の観客たちだった。
妄想が続く間、壁の向こうからは「観客たち」の笑い声や喝采が聞こえていて、それがさらに亭主の神経を逆なでする。くるりと舞台が回って、芝居の演じられるホールに亭主が乱入すると、「観客たち」たちは、みな仮面をつけて、一様に舞台から目を背けている。そして、ご覧のように、一斉に亭主を一瞬見つめると、仮面を取り、何もなかったように、また芝居に興じ始める。
二つの、本来、別のオペラは、ここでは、日本でいえば昭和を思わせるような、少し昔のイタリアの田舎町で起こった、一連の出来事として描かれる。二つのオペラの登場人物をさりげなくクロスさせたりする演出が見事だ。そして、子供も含む、まさに老若男女の村人たちの、復活祭を素朴に楽しむ様が実に美しい。イタリア出身の演出家ならではの、実感のこもった舞台と思わせる。そんな平和な村で起こる刃傷沙汰。村人は、むろん、右往左往するが、と同時に、彼らが、一連の悲劇の、所詮は、顔を隠した「観客たち」だということが、この一瞬の場面で示される。
様々な「村社会」で、そして例えば現代でいえば、巨大なネット社会で、顔を隠した「観客」たち、匿名性に隠れた無慈悲な「観客」たちの見つめる中、人間の喜劇や悲劇は繰り返されてきたと思い知らされる。
過去の、人気のある、誰でも知っているような馴染みのオペラを、現代に引きずり出して、一新させる手腕は、見事。
最後に、最近、オペラから遠ざかっていて、評価するような自信はないのですが、歌手のみなさん、アンドレア・バッティストーニの指揮、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏、合唱、すべて素晴らしかったと思います。ついでのようで、すいません。
ところで、たまたま、オペラの翌日、ご覧のような、落語の独演会に出かけた。
春風亭一之輔 独演会 2月13日 文京シビックホール 小ホール
いま、人気、実力ともに一番とよく言われる春風亭一之輔。この日のチケットも、ほぼ全席即売となった。幸い、マウスのクリックのタイミングよく、なかなかの良席で、この名人の芸に接することができた。感謝。
前半は、『不動坊』という、恋敵の縁談を邪魔するために、仲間と協力して幽霊騒動を引き起こすという滑稽噺。実は、正月にも、一之輔の落語を聴く機会があり、こちらも、似たような、コントに近い、複数の人物のドタバタ劇。文句なしのうまさ、面白さ。
さて、後半。『子別れ』という、子供が「かすがい」となって、別れた夫婦を再び結びつける人情噺。腕はいいが酒と女にだらしない大工の熊五郎が主人公で、昨年、柳家さん喬で、この噺を聴いている。現在、人情噺の第一人者と言われるだけあって、たいへんに感心して聴いていた。が、終了後、女房がぼそっともらしたのは、意外な言葉だった。
「なに、あの男、まったく…勝手」
さん喬の噺では、前半、熊五郎の酔ったうえでの横暴ぶりがしっかり描かれ、これでは女房も別れざるを得ないと納得させてくれる。そして、熊五郎が一緒になった花魁のダメさかげん、冷たさかげんもしっかり描かれ、熊五郎の後悔、それによる、別れた女房子供への、口には出さない恋しさも、納得させてくれる…。
これで、子供が「かすがい」となって、また、二人はよりを戻すんだねえ。さん喬さん、お見事。と思って私は聴いていたのだが、女房は熊五郎が許せなかったよう。
確かに、これって男サイドから見た勝手なハナシなのかもしれない。酒癖の悪いのはともかく、花魁を引き込むなんてのは、現代人から見ると、「人間性を疑う」レベルということになるだろう。そんな男が、こんなひどい目に奥さんをあわせて、子供が「かすがい」とはいえ、また一緒になってくれなんて、あり得ないッ!
女房の「心の声」を勝手に代弁してしまったが、さん喬さんの「演ずる」熊五郎の酔ったうえでの横暴ぶりが、あまりに「見事」で、その芸のすごさが、こうした反応を引き起こすわけだが、古典落語を演じる際の、実に難しくて、微妙なところだろう。
一之輔さんは、どうしたか?
話の前半の男の「悪行」を、ほとんど「あらすじ」にしてしまった。えっと思って聴いていたが、すんなり、ほのぼのとした人情噺として、たぶんわが女房も納得してくれるハナシだったんではないか。そうした「トリミング」をした分、子供がより「自主的に」ふたりに関わって、もっと今どきの、小学生の感じになっていて、子供が「かすがい」の部分を膨らませている。さん喬さんの子供は、いかにも子供子供した、昭和の子という感じで、その一途な感じが涙を誘うのだが、一之輔さんの方は、舞台は昔でも、子供は「令和の小学生」。(そういえば、噺のマクラ、まだ子供が小さいころ、会場の近くに住んでいて、この文京区のあちこちを子供と散歩していた思い出を語っていた)。だから、同じ噺でも、こちらも、あのオペラ同様、ぐっと現代に引き寄せたハナシとして、一新とまではいかないが、リニューアルされている。きっと、また高座にかける時には、さらに工夫されて、噺は面白くなっているのでしょうが、さすがです。
ただ最後に愚痴を言わせてもらうと、昭和生まれの私としては、やはり、さん喬さんにこれからも長く活躍していただいて、昭和の子供も残していってほしいと、切に願うのですが。
いま最前線で活躍する、現代のパフォーミングアーツの名人たちの仕事ぶりが生で見られた、充実の二日間でした。


