一昨日、ジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団で、ベートーヴェンの交響曲九番を、サントリーホールで聴いてきた。年末に「第九」を聴こうとは、ぜんぜん思っていなくて、最近だと、三年前の年末にバッハ・コレギウム・ジャパンで聴いたくらい。それも地元のホールで演るならばという、失礼ながら、消極的な動機で出かけたコンサートだったが、演奏は素晴らしかった。ピリオド楽器で演奏することの意義を再認識させられた。
2012年にノットが東響の音楽監督に就いて以来、たくさんのコンサートを聴いてきたが、2019年からノットが指揮している、「年末の第九」に出かけたことはなかった。今回は、ノットと東響の(本日、大晦日のジルベスターコンサートをのぞけば)最後の演奏なので、これは聴いておかなくてはと思って出かけた。
そんなわけで、初めて聴いたノット・東響のベートーヴェンの九番だったが、(私が勝手に想像するに)「年末の第九」に足を運ぶ聴衆の多くが抱くような、「年の瀬に第九を聴いて、今年一年を締めくくりたい...」といったような期待とは、良い意味で裏腹な演奏だった。また、「ノットと東響の最後の演奏だから...」という、私の感傷的な思い入れも、良い意味ではねのけた演奏だった。
小編成のオケを快速で鳴らし、しかも、要所要所はグイグイとえぐっていく、まことに目の覚めるような演奏。「いまさら第九なんて…」と、すっかり聞きなれたつもりになっていたベートーヴェンの音楽が、実に大胆で革新的に響く。2年近くコンビを組んできた、ノットと東響だから可能な演奏。そういう意味では、これは「集大成」だが、「これで完成です」という演奏でもない。「ノットの第九」を何回も聴いた方のブログを拝見すると、毎年のように演奏が変わるらしい。だから、今日の演奏もまた、未来への通過点なのだろう。三楽章終了後に、間髪おかずに開始された第四楽章も、いたずらに盛り上げることなく、サクサクと進んで、見事なクライマックスを築いて、スパっと終わる。さすが、ノット。と同時に、やっぱりノット。
私は、第九を聴いて、恥ずかしながら、涙したことが一度ある。あの3.11の震災の後、まだ余震の続くころ、急遽あえて来日したズービン・メータ指揮のチャリティコンサートを聴いた時だ。あれは、震災の直後という特殊な背景はあったが、全く文字通りに感動的な演奏だった。
満席の今日の聴衆は大いに沸いてカーテンコールが繰り返されたが、微塵も、感傷的な雰囲気にはならなかった。ノットらしい締めくくりだったが、聴衆の多くが、「第九」に、特にこの年の瀬に、期待するのは、あの「3.11の第九」のような、文字通りの感動なんではなかろうか。見事な演奏に心から拍手をおくりつつ、クラシック音楽を近現代音楽の延長上に容赦なくつき進めていく知的なノットの音楽に、どうしても感じてしまう物足りなさを、やはりここでも抱いていた。勝手な愚痴のようものと重々承知しつつ、より、若い世代、たとえば、カーチュン・ウォンなどがやろうとしていることに、ここ数年、興味が移っているのに気づく。
話はかわるが、常に前向き、ということでいえば、これも、この12月の中頃に有楽町朝日ホールで聴いた、立川談春の落語「芝浜」が、とても面白かった。「立川談春独演会~芝浜三態~」と題した、以下のような三日間の公演。
一日目 「除夜の雪」/「談志の芝浜」
二日目 「黄金の大黒」/「平成版談春の芝浜」
三日目 「富久」/「令和版談春の芝浜」
年の瀬がらみの古典落語「芝浜」を三通りの「版」で語り、やはり年の瀬がらみの古典落語と組み合わせるという試み。私が聴いたのは、三日目の「令和版」。
念のため、「芝浜」のあらすじを紹介すると、「金を拾った飲んだくれの男が、妻から『それは夢だ』と嘘をつかれたことで改心し、3年後、真面目になった男に妻が真実を明かして夫婦の絆を深める」という話(AIに「芝浜」のあらすじを極力短くしてくれと頼んだら、こうなりました)。
二年ほど前から落語をちょくちょく聴くようになり、実力のありそうな噺家はおおよそ聴く機会を得たが、立川談春さんが、まだだった。「芝浜」は師匠の立川談志の得意ネタで、この有名すぎる古典落語が「令和版」と銘打って、どう語られるのか、楽しみだった。「ノットの第九って、どうなんだろう」という興味と一緒で、こうした点、クラシック音楽と落語は、よく似ている。
「令和版談春の芝浜」では、真実を明かされた男は、「俺、夢じゃないのを知っていた。お前が嘘をついていたのは知っていた」と衝撃(笑)の返答をする。が、実は、これは事実を隠していた妻を責めないための嘘だったということが、この後わかる。と、話は二転三転…、お互いに優しすぎる夫婦の気持ちは、すれ違い、喧嘩にもなるが、中に入った大家さんの口利きもあって、すったもんだの末、男は妻に勧められた酒を(「原作」は、夢になるといけないと言って飲まない落ちで終わるが)、おいしく飲んで、翌朝、飲んだくれには戻らず、無事、仕事を続けていく。大家さんが、口利きの中で言う。男と女は所詮他人、分かり合えない。では、何で一緒にいるのか。私は女房を先に失くした。「この悲しみはどうやっても埋まらない。かけがえのない存在。それが亡くなるまでわからなかった」。
と、あらすじにしてしまうと、なんだかわけのわからないハナシになってしまうが、俳優としても高評価の談春が、ハラハラドキドキのジェットコースターのような展開のドラマを、客を笑わせ泣かせて、見事に演じきる。古典のままの「芝浜」は、上手い落語家が語れば、何度聴いても、それぞれに面白いが(だから、古典なわけだが)、その登場人物を現代ドラマに引っ張り出して、やや複雑な人物像を作り上げてしまう、大胆なチャレンジ。
必ずしもすべてが成功していたわけではない。これが、たぶん「ネタ卸し」。つまり、初演である。「令和版芝浜」は、これから談春が語っていく中で、きっと磨きがかかっていくのだろう。
英語に「パフォーミングアート」という単語があって、日本語だと、演劇、コンサート、オペラ、ミュージカル…などと、個別に呼ぶしかない、舞台上のパフォーマンスを、ぜんぶひっくるめて言うことができる便利な言葉だ。クラシックのコンサートも落語も、当然、舞台上のパフォーマンス、つまりパフォーミングアーツだ。
そのパフォーミングアーツの未来を、ノットのようなクラシックの指揮者や、談春のような落語家は、過去の遺産を継承するだけでなく、リスクを覚悟で果敢に探っている。
変わることで今も生き残っている落語。クラシック音楽も、同様。「古典」のままで化石化すれば、生き残れるわけがない。ともに18世紀に端を発するパフォーミングアーツ。ノットも談春も、古典の世界に「安住」することなく、未来を手探りしている。
実は、ノット・東響の第九と立川談春の芝浜の間に、ご覧のような、クラシックのコンサートに出かけた。
芸劇リサイタル・シリーズ「VS」Vol.10 角野隼斗 × ジャン=マルク・ルイサダ
12月25日、つまりクリスマスの日の、池袋の東京芸術劇場。いま大人気の角野隼斗の、「師匠」ルイサダとの、一台または二台のピアノの連弾を中心に、それぞれのソロもまじるコンサート。追っかけのいるような人気ピアニストは敬遠する方だが、モーツァルトをどう弾くのかには興味があって、反田恭平と藤田真央は、いずれもモーツァルトのコンチェルトを聴く機会があった。今回も、プログラムに、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハイムジーク」のピアノ編曲版の一台四手の連弾があって、それが目当てだった。
予想していたことだが、連弾となると角野隼斗もルイサダも、私の耳では区別もつかず、面白いものを聴いたという感想にとどまるが、その後、休憩に入る前の、角野隼斗の即興演奏は素晴らしかった。クリスマスソングのメロディーから入って、自由自在に「アイネ・クライネ」を交えて、輝かしく終結する。モーツァルトが現世によみがえったら、こんな演奏をしたんではと思わせる。見事。
だが、休憩後、「師匠」ルイサダがソロで弾いたブラームスの「間奏曲 作品118-2」が、隠し味のようなスパイスをあちこちにまぶしたような、繊細な演奏で聞きほれてしまい、他の演奏は、記憶からかすんでしまっている。と書いても、角野隼斗氏に失礼にはなるまい。全くこれからの人。ルイサダを含めた様々なミュージシャンから吸収して、自分の音楽を作り上げている最中の人だ。
終了後は、会場全体がほとんどスタンディングオベーションとなり、何度も何度も繰り返しそうなカーテンコールの歓声をあとに、早めにホールを出た。コンサート前、芸術劇場前の広場では、「推しフェス」と書かれた横断幕の下の大モニターの前のステージで、サンタ姿のイケメン(と思われる)男子たちが元気よくパフォーマンスして、冷たい雨の中、たくさんの女子が「推し活」で群がっていた。
周り中ほとんどがスタンディングオベーションとなるなか、どうも私は立ち上がる気にならなくて、とっとと退場したが、別に悪い意味ではなく、あのコンサートも「推し活」が中心となるパフォーミングアーツだったと気づいた。見事な演奏がむろん中心だが、二人がシルクハットを頭に、サンタとステージに登場したりする演出もあり、心地よくクラシック音楽を楽しむことができた。ノットや談春のやや「尖った」鮮烈な方向性も素晴らしいが、Kアリーナ横浜で、これまでクラシックでは考えられなかったような、たくさんの聴衆を魅了するパフォーマンスを繰り広げた角野隼斗も、クラシック音楽の枠にとらわれない、これからが大いに楽しみなアーティストだろう。
広場に再びさしかかると、雨は上がっていて、すでに終了した「推しフェス」の、照明を落としてガランとした会場を横切って、駅に向かった。


