ラヴェル クープランの墓   ブルックナー交響曲響曲7番 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2024.07.20 サントリー・ホール /  ブルックナー交響曲9番 カーチュン・ウォン指揮 日本フィルハーモニー交響楽団 2024.09.07 サントリー・ホール / ブルックナー交響曲8番 ファビオ・ルイージ指揮 NHK交響楽団 2024.09.15 NHKホール

 

 

ブルックナー生誕200年の今年、ブルックナーをとりあげるコンサートが多く、私も、たまたま連続して7~9番の交響曲を聴くことができた。しかも、それぞれに個性的。

 

ところで、ブルックナーの演奏されるコンサートに行くと、必ずと言っていいほど目にするのが、所在なげにプログラムをめくっていたり、すっかり寝落ちしている人たち。分かる。私も、昔はそうだった。ブルックナーの音楽は、分かりやすそうでいて、実は難解。ベートーベンやらブラームスやらを聴きこんで、クラシック音楽を分かったつもりになっていて、そうした音楽の「論理」で理解しようとすると、ブルックナーは、とらえどころのない、ぶつ切れの音楽の羅列としてしか聞こえてこない。

ノットのブルックナーを聴いていると、これがいかに「前衛的な」音楽なのかが、よく分かる。ブルックナーの音楽は、シェーンベルクのように、メロディもリズムもとらえどころが無くなっていたり、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のように、あからさまに不調和な世界が展開していたりしていて、一聴して「これはヘンだぞ」と思わせる「外見」はしていない。 メロディもリズムも、ぜんぜんフツーなので、誤解してしまうのだが、ノットの演奏では、曲想と曲想が、いかに不協和にせめぎあっているかが、あえてエッジを立てるように再現され、そこにこそ、ブルックナーの面白さはある、と主張される。ノットは、毎回、近代以降の音楽をブルックナーにあわせて、プログラムを組むので、両者を連続してして聴くことで、その意外な共通性が「耳」で、納得できる。東響の透明な音色が、それを更に引き立てる。

 

ルイージ指揮の8番は、「初稿版」による、めずらしい演奏であることが、話題になった。が、私は、実は、当日、プログラムを見るまで、そのことに気づいていなかった。関心がないのだ。ハース版だか何だか知らないが、たしかにCDで聴いていたのと、あっちやこっちが違うなと思うことはあったりするが、演奏の良し悪しには、直接、関係なかろう。さすがに、この日聴いた初稿版は、聴きなれたものとはずいぶん違っていて、驚いたりもしたが、「作曲家本人は、こうしたかったんだ、なんとも過激」と納得した。そして、おもしろかった。たとえば、第三楽章で、シンバルがはでにジャンジャン鳴らされたりして、やりたい放題やった爽快感があった。で、確かに、ここまでやってしまうと、ついていけなくなる人が多くなってしまい、たぶん自分を前衛とは思っていなかったブルックナーが、周囲の常識に寄り添って「改訂」したのだろう。

もし、ノットが、初稿版で演奏したら、あそろしいくらいに、前衛的で、不協和な音楽が鳴り響いたことだろう。「怖いもの見たさ」で聴いてみたい気もする。

 

それぞれに、おもしろかった。では、月並みな言い方だが、多少なりとも感動した演奏なのかというと、そうでもない。マーラーの交響曲9番でノットの演奏が好きになって、よくコンサートに足を運ぶようになって久しいが、当日、ブルックナーを聴きながら、そういえば、この人の演奏を面白いとは思っても、正直、文字通りに感動したという経験がないことに気づいた。7番、4楽章の最後、異様なくらい、まさに不協和に、ティンパニが大きく鳴らされ、知的な爽快感に浸りつつ、これは、音楽的な感動とは、ちょっと違うかなと思った。単純に、やや一本調子なノットの個性に飽きたのかもしれないが。

ルイージの指揮するN響の場合は、オケはウマいが優等生なだけで、オケとして訴えてくるものがないという、いつものN響で、ルイージとは、すれ違い。同じウマくても、例えば、東京都交響楽団などから伝わる、聴き手を圧するような一体感がない。何がいけないのだろう。とにかく、曲としてはおもしろい、演奏としてはウマいという以上のことが、残念ながら、ない。

 

いったい何と比べて、こんな悪口めいたことを言っているのかというと、カーチュン・ウォンと日本フィルのブルックナーが良かったからだ。温かいのだ。丁寧に再現されるひとつひとつのフレーズに、指揮者とオケが共感しているのが分かる。その「全休止」も、ひとつひとつを噛みしめるように進む。この演奏からは、自分の個性を貫いて、結果として「前衛的」な音楽に到達した、ブルックナーという生身の人間の体温が伝わってくる。こういう演奏は、ありそうでなかなか巡り合うことが少ない。むろん、たとえば、第三楽章で、ウォンの思い入れが空振りしているようなところもあったが、これからの完成に向けての長い道程が楽しみ、と思わせる演奏だった。大げさに言えば、無限大の伸びしろを思い描かせる。

知的な興奮も、技術的な完璧も、大切な要素だが、指揮者も含めたオーケストラの、音楽への熱い共感がなければ、感動は生まれない。そんな当たり前のことを思い出させてくれた、ウォンと日フィルのブルックナーだった。感謝。