水俣病VS環境省 | 硝子の中年のブログ

水俣病VS環境省

  環境省による、5/1の水俣病被害者団体との懇談において、個人が話している最中に遮って、音声のボリュームを絞った問題。

同席していた大臣は後日に謝罪した。

複数の点で言及できるが。

大臣は勿論、自民党の国会議員であり、形式的にポストに就いているだけ。

岸田に指名されて。

本音としては、「なぜ、俺が頭を下げなくてはならないんだ」

「なぜ、俺がバカな職員の、お粗末な担当者の尻ぬぐいをしなくてはならないんだ」

ある意味で正論と言える。

大臣は現場の細かい対応など、いちいち関知しない。

当然である。

  大臣は野球の監督とは違う。

そんなことをしていたら、体がいくつあっても足りない。

大臣自身が真夜中まで書類に目を通して、過労で倒れるだろう。

全ての省庁に該当するが、事務方のトップである、事務次官が説明すべき。

矢面に立つべき。

それが当然の職責であるはず。

大臣は防波堤ではない。

私は永田町で歳費を受け取る、政権与党の政治ブローカーの味方をするつもりは1ミリもないが。

  要するに、何が喫緊の課題で、何が懸案で何が隘路か、何が優先順位として対処が急がれる命題なのか、的確なブリーフィングが行われていない、という事実に尽きる。

また、大臣は腰掛けに過ぎないお客さんだから、国会答弁だけ要点を理解してもらえば、それで充分という観念が役人を支配している。

大臣と官僚の間には溝があり、隙間風が吹いているということである。

  それから、役人が全く国民を向いて仕事をしていない、という悪弊である。

国益と同列に「省益」という言葉がある。

各省庁の利益である。

いかに、新しい仕事を増やして、自分の省の存在意義を高めて、予算を増額させて、執行して実績を作るか、が彼らの最重点項目である。

官僚は現場の実働部隊ではない。

このような観点で導入された政策が建設省当時のスーパー堤防である。

当時はバブル全盛期であり、いかに潤沢な税収を配分して使い切るかという背景もあったが。

  このベクトルで現在も、政策の総体は肥満化の一途を辿る。

不要不急の事務事業を拡大拡張させる。

だから、財政赤字が世界に類例のない、異次元の数字に至っている。

実質的に破綻しているが、全国民が確信犯的な不感症になっている。

1ミリも批判も否定もしないマスコミは無能であり、体制に順応して同化する各社には世論を扱う資格はない。   

恥を知れと言いたい。

  いずれにしても、自分たちの政策が妥当であり、非がないことを立証することが彼らの本旨である。

それを脅かすような要素は徹底して排除する。

だから、今回の役人の姿勢は聴取ではなく、対峙である。

そして保身に走る。

それが今回のボリュームを絞った事案の実相である。

その先鞭をつけたのが、さらに加速させた人物が、似非の右翼の殺された安倍晋三である。

  日本は報道の自由度ランキングが世界で70位である。

全てに通底している。

いかに日本が時代遅れの、歪んだ国家であるかが分かる。

民主的な先進国ではない、ということに尽きる。

この国を中国やロシアと比べることはナンセンス。

あの地球の癌であり、膿である、恐怖政治の独裁者が君臨する国は、比較対象には全くならない。

  自民党と政府には戦前の特高警察のDNAが残っているということである。

これは誇張でも何でもない。

主人公は国民ではない、という現実。

これで内閣支持率が上がるのだから、有権者の政治的偏差値も極めて下等と言える。

本件は氷山の一角だろう。