昭和レトロと若者と街づくり | 硝子の中年のブログ

昭和レトロと若者と街づくり

  本日のNHKの番組で、昭和レトロを特集していた。

色々な角度や視点から語られていたが、早稲田大学のサークルで「レトロ研究会」の活動も紹介されていた。

非公認のサークルと思えるが、この緩さと自由度を尊重したい。

この分野の研究やフィールドワークが卒論に結び付くことはないと思うが。

  また、最近は巣鴨に若者が来ることも当り前になっている。

かつては「おばあちゃんの原宿」というフレーズで表現された街であり、若者は皆無だったが、今では普通に見かける。

商店街を歩く1/4くらいは若者か?

私はコロナの時代になってから、都心に向かっていないので、現在の様子は実感としては分からないが。

コロナ以前は、この商店街や駅周辺で飲食や買物はしていた。

勿論、地元ではないが、たぶん25回前後は訪れたと思う。

  ドラッグストア、パン屋、帽子店、蜂蜜専門店、胡麻の専門店、鰻屋、鮨屋、蕎麦屋、洋食屋、中華料理店、大衆食堂なども利用したので。

インタビューに若者は「非日常が味わえるので」と話していた。

私を含む、高齢者とは全く反対の感性と言える。

この若者の自遊時間を過ごす街は渋谷なのだろう。

しかし、流石に毎回渋谷では飽きないか?

たまには下北沢であり、新宿であり、さらに麻布十番、神楽坂、人形町となり、その延長線上に巣鴨、浅草などが候補に上がるのだろう。

  彼らの一部は昭和レトロの魅力として、デジタルではないアナログの質感を挙げていた。

例えば音楽を配信やサブスクではなく、レコードをターンテーブルに乗せて、針を落として聴くことが、現代の倍速のようなスピード感に追われることがなく、自分だけの時間軸を味わうこと、それが自身の波長に合うという感興なのでは。

「手作り」というキーワードは余りにも陳腐な常套句かもしれないが。

  カメラにしても、スマホやデジカメではなく、フィルムカメラの愛好家が少しづつ増えて、復権しているらしい。

例えば、スマホでもセピアに加工することはできるのだろうが、ネガフィルムの持つ無機質ではない、ある種の温感や郷愁は捨てがたい。

また、時短だけが、タイパだけが正解という判断基準は是認できない。

最近は「スローライフ」という言葉が聞かれないが、減速という観念を基本にすべきと捉える。

今世紀になってから特に、全ての局面で加速するという価値観が日本人の思考回路を覆っている。

だから、リニアモーターカーのような乗物が肯定される。

しかし、加速したりスケールメリットを求めれば、極集中となり温暖化となり、環境は保全されずに悪化する。

利便性の代償として、失われるもの、決して戻らないものがある。

要するに物欲と環境保全は二律背反である。

  いずれにしても、近年のベクトルを促進させると、巣鴨も再開発の対象となる可能性さえ有り得る。

因みに西新宿の「想い出横丁」の再開発は一向に進捗しない。

ゴールデン街は諦めたのか?

  以前も記したが、再開発という名の街のロボット化は令和のバブルの象徴であり、街の個性を殺す、全否定する方程式と言える。

再開発は昭和レトロに好感度を抱く傾向とは真逆の潮流であり、趨勢と言える。

どこを切っても同じ、金太郎飴のような街は要らない。

多様性とは決定的に矛盾する。

街の遺産、あるいはアーカイブを抹消する、消除することに外ならない。

再開発こそがオールマイティの手法、という志向は単細胞の極みと指弾したい。

勿論、当事者が恣意的に推進していることは承知だが。

奴らにとっては銭儲けこそが全てに優先する、絶対的な思想信条なので。