・・・・・【脳のインプット後期190名の女性の方々】・・・・・→→→「2、・・・・・【A第2グループ】・・・・・→①、今から約9年ほど前に府立の精神科の主治医のF・O先生が体調を崩し、かわりにきていた30歳くらいの女の先生で女優の鈴木保奈美さんに似ていてとてもきれいな先生です。・・・・・→②、今から約9年ほど前に府立精神病院のそばにある処方箋薬局の薬剤師の女の先生です。N短期大学の広報科の私の同期のM・Eさんにけっこう似ている30歳くらいの先生です。・・・・・→③、私が26歳位のときに裏ビデオ宅配のゴジラから購入したAV女優の田中ローザさんです。N短期大学の広報科の同期のM・Eさんにかなり似ています。今まで述べた事は、意味があり価値があり、キペラを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、私は高校からの特別推薦や親の口利きなどで、N短期大学の広報科に何とか現役で入れえていただき、何とか現役で卒業し、その中で大阪G大学の編入試験も受けましたが、不合格となり、ふたたび親の推薦などで三菱の子会社に契約社員として入れえていただけることになりました。私はこの時に、人の10倍の努力をしてやるぞという意気込みで三菱の子会社でのサラリーマンに望みました。ここで大切なこととして、ある人が人の3倍の努力はできても、10倍の努力は無理という人がいました。その人によると1日8時間働いて、24時間働けば、人の3倍までの努力は可能だけど10倍は無理というのです。これは大きな間違いです。例えば今の私のように1日に1kmくらいしか歩かない人と、シドニーオリンピックでゴールドメダリストになった高橋尚子選手は大会前に1日70km走ったといいます。この時点で私と高橋尚子選手とでは、実に70倍もの努力の差が生じるのです。又、あとで話しますが、私は23歳~35歳まで途中病気などで本が読めないときもありましたが、年間に120冊ペースで本を読み、そのノルマを毎年ほぼクリアーしてきました。例えば、月に1冊しか本を読まない人とでしたら1年に10倍の努力の差が生じ、10年すれば100倍もの努力の差が生じるのです。さきほどの人は、人の3倍までの努力はできてもそれ以上は不可能というのは、共産主義者の考えと同じなのです。共産主義は、たとえばテニスコート位の畑があるとします。このテニスコート位の畑をAの人は8時間かけて耕し1万円いただきました。ところがBの人はテニスコート位の畑を1時間で耕し、つぎのテニスコート位の畑を三つも四つも耕して、8時間働きましたがいただけるおカネは1万円だったというのと同じことを述べているのです。サラリーマンでは3日かかる書類を1日でする人もいます。それが私だったのです。ですから3人でいかないといけない現場を私とまわれば2人でいけるようになっていたのです。これは何も自慢話をしているのではなく事実を伝えているだけです。そのようにして、私は暴走族の大阪連合修羅8代目総長をしていたE・H氏から、朝は必ず1番に出社しろというアドバイスをいただきました。それは、サラリーマンの世界では朝一番に出社するときから勝負はすでに始まっているからなのです。私はどんなに疲れえていようと風邪を引いていようと朝は一番に出社しました。そして先輩社員や上司がくるまでに、簡単な掃除をして、コーヒーをつくって、いつでもコーヒーを出せるようにしていました。そしてその当時は阪神淡路大震災の時でしたので、私は最初は、兵庫県明石市の現場に配属されました。そこでアパートをかりていただくかわりに先輩社員のN氏と現場代理人のY氏の晩ご飯をつくっていましたが、なれないせいもあって、又、いじめを食らい昼勤3日すれば、夜勤2日して、又、昼勤2日して、夜勤1日して、昼勤3日するなどしていじめをくらい眠れなくなり、鼻血がでてきて倒れました。そんな勤務状況を知ったT・D部長は、最終的に震源地である兵庫県淡路島にY氏を左遷しました。あと現場でケンカになったことは、先輩社員のN氏が夜に現場事務所にいて、酒を大量にあおり、れいすいしていて、私が現場事務所に入ってしばらくすると、韓国のキムチには、蠅がたかっとる、と、言ってきました。私はその時に体全身が震え、脳からアドレナリンが体内へと大量に分泌されてゆき、さらに頭の脳の線が一本切れ、そして発狂した私は、N氏に、お前どこのキムチに蠅がたかっとるんじゃ、と言って、胸ぐらのつかみ合いとなり、くるいに狂った私がおさまらないことに、芋を引いたN氏が、俺が悪かった、実は、この話は、K課長から教えていただいたんや、と、言ってきました。K課長は共産党支持者で、強引なことでも噂は聞いていましたが、その明石市の現場が終わると、今度は私は、神戸の三ノ宮や元町を中心とした震災復旧工事の現場に2年間携わることになるのですが、K課長からは、まず休みが一切なく土日も関係なく、昼夜通しということもざらで、そのうえ、元町などに、最初は焼肉か寿司かテッチリをごちそうになり、あとは女の子のいる韓国クラブを2~3軒はしごするというのがいつものおきまりで、それが週に仕事が終わってから2~3回あって、たまにK課長の家に呼ばれえて天ぷら料理やおでんなどを御馳走になりました。私はそれでも朝一番に出社して現場事務所にいき、簡単な掃除をして、コーヒーをつくり、K課長らがきませば、そのコーヒーを出して、ミーティングをして現場に出るというかなりハードな仕事をしていて、私は熱を出し、鼻血が噴き出て、倒れ、救急車ではこばれえるということが2回ほどあり、それでも死んでもやめてたまるかと思い、命をかけて食らいついていきました。K課長からは厳しくもされましたがやさしくもされました。K課長から教えていただいたことは2つあります。一つ目は、やまよりでっかい獅子はこん、という言葉ですが、意味は、この世で起った出来事はこの世で解決できるということですが、のちにテレビで池田勇人首相もこのことばを述べていましたので、K課長は池田勇人首相の影響を受けていたんだなと思いました。二つ目は、やる気を出して、やりがいを食べろ、という言葉ですが私にはその当時、この言葉の意味がよくわかりませんでしたが、今から12年前にMさんと大阪のミナミのある場所で出逢い、全身に稲妻がとうり抜けるような衝撃を受け、なんてきれいな女の子なんだと思い、奇跡的に現在も1ヵ月か2ヵ月に1度お会いしていますが、それはもうやる気にやる気が満ち、何事に対してもやる気が起き、その頃はノートを記して作成していたのですが、これはアカン一からちゃんとやり直そうと思い約100冊位のノートを文章で埋めました。そしてそのときにあの、やる気を出して、やりがいを食べろ、というのは、こういう意味だったのかなと何となく理解できるようになりました。そうして阪神淡路大震災の復旧工事が2年位で終って、今度は本社に呼ばれえることになりました。そして本社勤務が始まるのですが、何をしてよいのかまったくわからずにいたときに私のもとへ品質安全管理室の次長のS氏がやってきて、自分なあ、よう現場でケンカしとったみたいやけどなあ、その歳でケンカ強いとか言うとったら、陰でアイツアホとちゃうかと言われえるぞ、と、言われた私は、すかさず、どうすればいいですかと尋ねました。するとS次長、本を読みなさいと言って司馬遷の史記1巻をプレゼントしてくれます。しかし、一人だけの意見では確信を得られなかった私は、地中線部の管理職の方々全員に、どうすればいいですか、と、尋ねてまわると、皆が口をそろえるようにして本を読めというのです。私はそのときにはまだ本読みがどんな効果があるかはよくわかりませんでしたが、三菱の管理職の方々が言うからには本読みは悪いことではなく、良いことであるということが確信できました。しかしながらただ本を読むといってもどんな本を読めばいいのか、そして1年間に何冊くらい読めばいいのかという量的な基準がわからないでいました。そんなときに地元の大阪連合修羅6代目総長のS・A君が、総会屋の小池隆一氏は、警察の留置所内で7ヵ月で60冊の本を読んだみたいやなということを教えていただいた私は、よし、悪人ではあるが、小池隆一氏のようなビッグな人物になってやると思い、年間120冊の本読みに23歳の時に踏み切りました。私は、初めの頃は、新本を買っていたのですが、おカネが追いつかなくなり、古本屋めぐりをしては、さまざまなジャンルの大学教授が記した本や、事業で成功した人の本や、スポーツで一流になった人の本や、芸能界で有名になった人の本や、自己啓発や、歴史小説などを中心に、1冊100円~300円の本を大きなカバンを二ついっぱいになるほど買いあさり、特に100円コーナーで有名な人の本などの掘り出し物を探すのが好きでした。そして沢山買ってきては、ひたすら時を忘れえて読みふける日々がスタートしたのでした。そんな中で地中線部のO課長から若手全員で2級土木施工管理技術士の国家試験を受けてこいというので、私は、三菱の社員7~8名と一緒に2級土木施工管理技術士の国家試験を受けることになりました。試験まで半年くらいありましたので、私は2つの戦略を組むことにしました。1つは、イベンダーホリフィールドのメンタルトレーニング、2つ目は、東京大学教授の野口先生の『超勉強法』という本を参考にしました。1つ目のイベンダーホリフィールドのメンタルトレーニングとは、まずイベンダーホリフィールドとはどんな人物だったのか、それはプロボクシング世界クルザー級、世界ヘビー級で統一世界チャンピオンになったアメリカの黒人の選手です。そのイベンダーホリフィールド選手が、もとプロボクシング世界ヘビー級統一チャンピオンのマイクタイソン選手との対決の前夜にマスコミ陣からどういう試合になりそうですかと問いかけられえたイベンダーホリフィールド選手は、私は必ず勝てます、と、そう答えました。そしてマスコミ陣がその理由をお聞かせくださいと尋ねたところ、イベンダーホリフィールド選手は、私は全ての準備をしてきたからです。と、答えました。イベンダーホリフィールド選手は、超一流のトレイナーの指導のもとで、数百というスパーリングをこなし、超一流の栄養士の食事をとり、ウエイトトレーニングはアメリカのボディビル世界チャンピオンのドリアンエイツ氏から指導を受け、そして自らも毎日10kmのランニングをかかしませんでした。そうした全ての準備をする、というのは、実は、アメリカの海軍の戦略の一つなのです。裸で戦場に出れば1秒か2秒で銃で撃ち殺されえてしまいます。そうならないために日ごろから厳しい訓練を受け、充分な戦略も練り、選ばれえたものだけが、防弾チョッキを身にまとい、機関銃に弾を込め、トランシーバーも持ち、数日分の水と食料を持ちえ、はじめて戦場に出て戦うことを許されえるのです。そして結果は、イベンダーホリフィールド選手がマイクタイソン選手から勝利しました。私はこの、すべての準備をする、ことを2級土木施工管理技術士では、用意されえた全ての教材を読み、9回あった講習会にも全て参加し、解答シートを作成し、それをコピー機で何百枚と刷り、何千、何万という学科試験の過去十年の問題を解きました。二つ目の野口教授の『超勉強法』ですが、この本は何と、私の兄と弟も持ちえていました。その『超勉強法』の中の東京大学合格英語の勉強法を実地試験に活用しました。その東京大学合格英語の勉強法とは、中学1年から高校3年生までで習った英語の教科書を20回読めというものでした。私は学校の授業は全部出ましたが、英語はわかりませんでしでしたので、とくに積み重ねが必要とされえる英語の文法も単語もあまりしりませんが、この20回読めという基準を知り、2級土木施工管理技術士の実地箇所を20回読み、40回読み、80回読み、最終的には数百回読みました。そしてあと論文試験は自分で考えて管理職の方々にチェックしていたただき、すべてのやれえるだけの準備をし、2級土木施工管理技術士の国家試験を受けにいきました。それからしばらくしてから一通の葉書きが届き、ドキドキしながら開けると2級土木施工管理技術士の合格の通知でした。私は神様に手を合わし、ありがとうございました、と、祈りました。そしてその合格の通知を持ちえて会社にいってみると、三菱の7~8名の工業大学や高専を出た若手社員が全員不合格になっていたのです。私はそれまでリースやパートタイマー呼ばわれされえていましたので、してやったったと思い高揚はいつまでもおさまりませんでした。そうして24歳でK電力所のC級現場代人の資格もいただき、(3千万円以下のの工事を請負でいける監督の資格)よしこれからやというときに事故が起こります。それは下請けの社長だった私の母の弟が41歳という若さで肺癌の末期となってしまい、私は、地中線部のT・D部長から下請けに帰って手伝ってあげなさいと言われ、私もどうしていいのかわかりませんでしたが、何日か経って、自分の持物をまとめて、帰っていくときに先輩社員のMさんからは強制送還という声も聞こえてきました。こうして私の丸4年のサラリーマン生活は終わりました。その後、下請けに帰って待ち構えていたのは、その昔に現場監督とケンカになり、その監督の尻をノコギリで斬って懲役7年務めたY・Mさんでした。Y・Mさんは気性がとてもあらく、女子高生から信号の所で、おっさん邪魔や、と、言われたY・Mさんは、なにおー、と、言って、追いかけてゆき、その女子高生を捕まえて、このガキャー足ぶちぎっちゃろか、と、言うと女子高生は泣いて、ごめんなさい、と、言ったそうです。私にもY・Mさんは自転車でペダルをようこいだこいだ、と、いっていました。そんなY・Mさんですが、私がよくまじめに働いていましたので気に入っていただき、よく焼肉を御馳走になりました。そして現場の技能員になっても本読みを続けていたある日、古本屋で中国の儒教の開祖の孔子の論語があったので購入して読んでみると、孔子が一番愛した勉強のよくできる顔回が若くして病のために亡くなったことに孔子は深く悲しんだとありました。私はその文章を見て、ちょっと待てよ、このことはサラリーマンの時に品質安全管理室のS次長からプレゼントしていただいた中国の歴史学者の司馬遷の史記にも記されえていたぞ、と、かすかに思い出し、司馬遷の史記全5巻をもう一度、読み返していくとそこにはやはり、孔子が一番愛した弟子の顔回が病のために若くして亡くなったことに孔子は深く悲しんだことが記されえていて、私はちょっと待てよ、司馬遷といえば、今から約1000年前の中国の歴史学者です。孔子といえば、世界の4大聖人の一人で、今から約2500年前の中国の儒教の開祖です。そして今、私は、孔子の論語と司馬遷の史記を読んで、その孔子が一番愛した勉強のよくできる顔回が病のために若くして亡くなったことに孔子は深く悲しんだという文章を照らし合わせたつぎの瞬間に、歴史の重圧と古典の軌跡に押しつぶされそうになり呼吸をするのがやっとという状態となり、現在から司馬遷のいた約1000年前にタイムスリップし、そしてそこからさらに約1500年前の孔子がいたころにタイムスリップしたような不思議な気持ちになり、この歴史の真実にただただ啞然としたままその場に何時間もいて、徐々にこれはすごいことだなと思いました。それは確か、私の弟が公認会計士の二次試験を受けていたときでしたので、私が25歳位のときだったと思いますが、この古典の軌跡と真実に私はさらなる本のとりことなっていったのでした。それから10年ほどの月日が過ぎてゆきます。私が35歳くらいのときに実家の私の部屋のカエルの灰皿にマリファナを置いていたのを母に見つかり、父を呼ばれ、精神病院に行こうといわれ、2度目の今度は任意入院となります。このときは3ヵ月間の入院となりましたが、1回目の強制入院よりも、2回目の任意入院は、かわいい女の子もたくさんいて楽しかったです。そして私はそこから本に暗示をかけて開いたページを患者10名の方々にノートに記していただき、お礼はお菓子やタバコを渡して、私もノートを記してゆきながら、みんなの力でノートを1つ2つ3つと完成させてゆき、私自身も文章をノートに記すことが嫌いではありませんでしたので、退院のときは嬉しかったのですが、まだ入院していろと言われえても全然平気な気分のベテランになっていました。その後、退院してからすぐに私の10歳ほど年上の患者のM・Jさんと7年間ほど、大阪の住吉の診療所で一緒になり、いつもコーヒーをおごってくれえたり、色々なヤクザの世界の話を教えていただいたり、自らの覚醒剤使用と後遺症、懲役のときの話などをしていただき、診察までの待ち時間も楽しく過ごせました。そのM・Jさんから最後にA4くらいの紙に今までの何でもいいから文章を記して持ちえてきてくれと言われえた私は、今まで記した中の200ページの文章をコピーして渡してみると、M・Jさんは、普段は笑わん俺が少し笑ってしまった、この文章を自分だけのものにせず世に広めよ、と、言われました。又、その時に糖尿病になってしまい、いつ合併症で脳梗塞や腎不全になるかわからないなと思い、一生一回の大きなかけにでました。それが十数年の本読みなどで蓄積されえた知識が記されえている、キペラの精神論です。私は何度も申し上げましたが、23歳から途中病気等で読めないこともありましたが、本を35歳までに約1500冊読んできました。そして父からはそんなに本読んでどうするんや作家にでもなるんやったら話は別やけどな、と、言われながらもその頃は何のおカネにもなりませんでしたし、ただひたすら良い事であれ、悪い事であれ、何かの形で返ってくるという、そう信じてひたすら読みつづけ、35歳の時点では何も返ってきませんでした。そうして35歳~41歳までガムシャラに好きな本をノートに記してゆき、ノートを次から次へと埋めてゆきながらも、又、少しずつ実力をつけてゆきながら少しずつ長い文章を記せるようにしていきました。しかしながら最初は、本を1冊でいいから世に広まって、たとえ一人でも読んでくれえる人がいればそれでいいと思えていたのが、インターネットの力で、ブログに載せていけることになり、私個人の意見は2000ページくらいであとは、自分が読んできた本や他の著者の方々の作品の紹介となっていますが、まさしく今、願いが形になってくれえています。でもこれも、私をクリスチャンにしてくれえた名親のS・Sさんや、M・Kさんや、洗礼を授けてくれえたS・H牧師や、堅信を授けてくれえたO主教、また、くじけそうなとき心優しく癒しののアドバイスをしてくれえたアドバイザー様、これらのブログをしていくうえで今でも強力なバックアップをしてくいれえている日本の周囲様、そしてイギリスの周囲様、この全ての方々みんなのチームワークでみんなのものであるキペラの精神論は、私の命が尽きるまで続けさせて欲しいです。でも、一番にキペラの精神論を読んで欲しかったのは、2年5ヵ月前に癌で亡くなった父です。父は私たち兄弟や母を体を張って守ってくれました。父は、桃山高校から大阪ナンバー2の公立大学に入りましたが中退し、環境が良ければ、京都大学にもいけていたほどの頭脳の持ち主で、弁護士の作成する書類が作れえるほどのものでした。その私の一番の理解者の父にキペラの精神論0~11653までせめて読んで欲しかったです。父が死ぬ前に私は父に、僕が頑張ってるブログを全部読むまで、父ちゃん死んだらアカンでといいました。父の最後の言葉は、私のことを、父は、あいつはわしが守ったらなアカン、と、言って息を引きとりました。今も悔やまれます。でも、ふと我に返り気が付くと私は49歳になっていました。23歳から本の世界に入り、苦しいこともありましたが、無我夢中で駆け抜けた、まさに夢の世界のようでした。人間の真理は(正しい答え)とは一体何なのかなと、ぼんやり考えていますと、これはその時節によって真理は変化していくものであるといえますが、私の個人的意見では、重い病気や、重い障害がないかぎり、人は仕事をするということが人間の真理ではないかと思います。戦後の日本は皆が飲まず食わずではなく、飲まず飲まずで必死に働き奇跡の経済成長を成し遂げました。その仕事の中では楽しい事ばかりじゃなく、つらい苦しいこともあります。でも、人間いいことばかりじゃないけど、悪いことばかりじゃない、人間は一人で生きていくことができなければ、一人で死んできくこともできない、というのが私の今現在の感じるところです。確かに私は30歳でパニック障害になり、そこから5年間マリファナにハマって、人生のどん底までいきました。しかし、神様は助け舟を出してくれます。それが2度目の精神病院での任意入院のときにテレビを観ているとアメリカメジャーリーグのロサンゼルスドジャースの黒田博樹投手が勝利をあげたニュースが映しだされえたときは、私は手を合わせて神様に見えました。黒田博樹投手は、小学5年生のときからの知り合いで、S小学校とK小学校のケンカのときに来ていて、私どものF・K氏をピンタで泣かし、黒田博樹投手が勝利しました。又、中学3年生の時は、同じクラスで修学旅行の班も同じでしたので、広島カープ時節からテレビを観ていて黒田博樹投手投げていれば必ず見ていました。日本での一番の印象は、私が20代の頃に広島カープと巨人軍との試合で完封で黒田博樹投手が勝利した試合が特に印象に深く刻み込まれえています。又、精神病院から退院後は、NHKBSをつけながら好きな本をノートに記していましたときに、今度は世界一の名門チームであるアメリカメジャーリーグのニューヨークヤンキースのエースナンバー18番で投げているのを見て、もうまともにテレビを観ていられませんでした、それは打ち込まれえるんじゃないかという心配心からです。結局その年のシーズンはニューヨークヤンキースはリーグ優勝し、黒田博樹投手は16勝11敗というすばらしい成績でチームに貢献し、その世界一の名門チームの舞台で活躍する黒田博樹投手と私とでは、天と地との差があるなとも思い知らされました。しかし、私はそこで人生を諦めませんでした。自分の心の中では、このままで終われえるかいな、という思いが強く深くありました。今の自分は黒田博樹投手に励まされ、又、Mさんとの偶然の出会いがあり、アドバイザー様の支えがあり、日本の周囲様、そしてイギリスの周囲様の強力なバックアップがあり、今言えることは一言、ありがとうございます。という言葉に尽きます。私も偶然に偶然が重なり運も味方し、自らも多少の努力をし、神様が、こうでありなさいときっと導いてくれえたと思います。脳のインプット後期190名の女性の方々の【A第2グループ】・・・・・→①、今から約9年ほど前に精神科のF・O先生の代診できていた、30歳位の女優の鈴木保奈美さんに似たとてもきれいな先生です。・・・・・→②、今から約9年ほど前に精神科のそばの処方箋薬局薬剤師の女の先生で歳は30歳くらいでした。N短期大学の広報科M・Eさんに結構似ていました。・・・・・→③、AV女優の田中ローザさんです。この3名は、脳のインプット前期387名の女性の方々には登場しません。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない涙目で微笑む神様の恵みによって支えられえている中をなくしたものを取り戻す強く信じる力で生きてゆく、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わりゆく明るい未来への星の魔法のバードフライパラダイスのメッセージとなるのであります。」・・・・・次は、書物のアンダーラインへと移動します。・・・・・→→→