・・・・・[世界名言集を変更いたしまして、ノートの問いへと移動します。]・・・・・→→→【自分が本読みや極真空手やベンチプレスを頑張るのも、地位や名誉や財産は関係なく、自分自身の幸福と成長の為である。】とあります。・・・・・→→→「★今から4つの話をしていきたいと思います。1つ目は、本読みについての話について、私は、そこらの3流の短大をなんとか現役で入り、現役で卒業しました。そして親などの推薦で三菱の子会社に契約社員として入れえていただけることになりました。しかし、学生時節にほとんど勉強をしてこなかった私は、不安で不安でしかたなかったのですが人の10倍の努力をしてやるぞという気持ちで三菱の子会社に挑みました。するとアホとみなされえた私は、けちょんけちょんにバカにされ、イジメられ、現場で過労のために熱を出し鼻血を噴き出し倒れ、救急車で2回はこばれえるというしまつでした。それでも私は、絶対にやめてたまるかと思い上司や先輩社員とケンカになり、つかみ合いになりながらも、何とか休まずに現場に出て、そして今度は2年半位たって今度は本社勤務となりました。そんなある日、品質安全管理室のS次長が私のところに歩みよってきて、君なあ、よう現場でケンカしとったみたいやけどなあ、その歳でケンカ強いとかいっとれば、陰でアイツアホとちゃうかといわれるぞ、と、言われました。私はその時にすかさず、どうすればいいですか、と、尋ねました。するとS次長は、本を読みなさい、と、言ってくれました。私は、その23歳にして、ちゃんとした本をまともに読んだことがなく、そうか、本を読めばいいのか、ということがわかりました。でも、一人だけのアドバイスだけでは、確信を得られなかった私は、地中線部の管理職の方々全員を回り、一体どうすればいいですか、と、聞いて回りました。すると皆が口をそろえるようにして、本を読みなさいといいます。私はそうか、本を読めばいいのか、と思いどのような効果があるのかないのかもわからないまま、本を読む決意をします。しかし、一体年間にどれくらい本を読めばいいのかという基準と申しますか量的なものがわからずにいました。そしてそんな時に地元の2つ上の先輩のS・A君が、総会屋の小池隆一氏は警察の留置所内で7ヵ月で60冊の本を読んだみたいやなあ、という話を聞きました。総会屋の小池隆一氏とは、総会屋の大物で、小池隆一氏の関係する会社に第一勧銀が50億円の融資をしたことが事件となり、第一勧銀は、宝くじの発売を禁止させられえるほどの人物でありました。私は悪人ではあるものの小池隆一氏のようなビッグな人物になりたいと思い、23歳のときに年間120冊の本読みにふみきりました。そして私に起った変化は、三菱の社員7~8名と一緒に国家資格である2級土木施工管理技術士の試験を受けにいって、私だけが合格し、又、24歳のときにK電力所のC級現場代理人の資格もいただきました。このように1年間に本を120冊読んだだけで、バカ扱いにされえていた私が三菱の子会社で若手のエースやなあ、と、地中線部のT・D部長から肩を叩かれえるほどまでに成長したのですが、下請けの社長だったM・T兄さんが41歳の若さで肺癌の末期となり、T・D部長から下請けに帰って手伝ってあげなさいと言われ、強く悔いが残りましたが、下請けに戻ることになります。今になって言えることは、本読みは、脳全体を鍛え、脳の記憶力がどんどん強くなる効果があることがわかりました。そして私は途中病気等で本が読めないこともありましたが、35歳までの12年間、毎年120冊ペースの本読みのノルマを自分自身にかし、そのノルマをほぼクリアーしてきました。この12年間で約1500冊の本を読みました。本を読んでも、すぐに売りにいく人や捨てる人がいますが、こういう人は、一冊の本も読んでいないのと同じことです。何故なら、本一冊を読むのにどれほどの時間と労力をつかい、又、自分がどれだけ読んだか、又、どこになにをアンダーラインしていたかを確かめることができません。ですから私は、1冊読むごとに読み終えれば日付とサインをして、1冊1冊大切に保管してきました。私が持ちえている本の90%は古本です。暇があれば古本屋巡りをして100円~300円位の本で、大学教授が記した本や、事業で成功した人の本や、有名になったプロスポーツ選手の本や、芸能界で有名な人の本や、歴史小説や、自己啓発など、さまざまな分野の古本を自分の目で確かめて購入しました。そして35歳からは、本を読むだけではいけない、今度はノートを記していこうと思い、35歳から糖尿病になる41歳まで6年間ただひたすら、自分の好きな本をノートに記していきました。その6年間で約100冊のノートを作成しました。そして41歳のときに同じ精神科に通うMさんが、ただ本を読むだけじゃなく、ノートを記すだけじゃなく、自分の考えを世に広めていったらどうや、というアドバイスを受け、私は一生一回のかけにでます。それがキペラの精神論です。このキペラの精神論はすでに私だけのものではなく、強力なバックアップをしてくれえているアドバイザー様、日本の周囲様、そしてイギリスの周囲様のみんなのものです。しかしながら、ジャーナリストの中谷彰宏氏が言っていたように、本読みをすると早い人で半年、遅くとも10年以内には何かが返ってくるとありましたが、これを占いの世界では、因果応報と呼び、又、科学的にも証明されえていて、科学的には相互因果の法則と呼びます。又、中谷彰宏氏の本の中で、本には知性の神様が住んでいるとも記されえていました。中谷彰宏氏は、早稲田大学を卒業後に、募集定員90名の採用試験に6000人が受けにきた博報堂の試験に合格して、CMプランナーとして8年間つとめたのちに、独立し、会社を設立し、これまでに数百冊の本を出版しています。そんな私が本読みをはじめたときに1つ目に読んだのが日経データバンキングで2冊目が、中谷彰宏著者の『不器用な人ほど成功する』という本ですが、その本の中にはこう記してありました。器用な人というのは学生時節に成績がよかった人です。不器用な人というのは学生時節に成績の悪かった人です。ところが社会にこの両者がでたときにある時期に逆転劇が起こります。それは不器用な人には根気があるからです。とありました。そうかそうなのかと思い私の本読みはさらに加速されえるのですが、29歳の冬に急性扁桃炎をこじらせて、十二指腸潰瘍、そしてパニック障害になり、一時は本が読めないという時期もありましたが、何とか35歳まで読みつづけることができました。本読みは、読めば読むほど、知性と理性が身につきます。知性は、今まで読んできた本の情報が積み重なって、知層が積み重なり、スマートな考えを持ち得られえる脳になるということです。そして理性とは、たとえば、人とケンカになって、相手を殴ってはいけないと踏み止ます判断力です。又、この薬物には手を出してはいけないと踏むとどまる判断力です。又、これを盗んではいけないとする判断力を指します。でも、ふと気が付けば、私はもう49歳になっていました。無我夢中、つまり本の世界の夢の中にいて、しらふに戻ると、もうこの歳になっていたのでした。それはあたかも浦島太郎の世界ともいえます。2つ目は、極真空手についての話について、私は丸4年間のサラリーマン生活が終わり、下請けに帰って、今度は力仕事をすることになるのですが、この時に高い目標として極真空手で世界一になるという、かなりハードルの高い目標を立てました。25歳くらいから本腰を入れえて極真空手の道場に通い出し、ボコボコに打ちのめされえても、これくらいで苦しいと言っていれば、極真で世界とられへん、というのが私の口グセでした。そして29歳の冬に急性扁桃炎をこじらせてパニック障害になり、極真空手4級という成績で幕を閉じます。このことについては、何も言うことはありませんが、一応29歳のときには、道場にいた黒帯の方々3名に勝てるほどの実力はあったにはありました。しかし、結果はとてつもなく中途半端でそれも不吉な数字である4級という結果で極真で世界をとるという夢と目標は幻となって消え去っていったのでした。その頃に極真空手でのライバルであり、目標とする人物は友達のH・T君でした。H・T君は、20歳のときに東京の極真の虎の穴と呼ばれえていた黒澤道場に入門し、24歳のときには城西の内部試合で1回戦で全日本ウエイト制無差別級で3回ほど優勝している近藤選手に競り勝ち、2回戦で全日本の田村選手の弟に勝ち、3回戦で全日本ウエイト制無差別級で2位になった佐野選手を倒して、城西のチャンピオンとして君臨しました。又、私が通っていた極真空手の世界大会で2回優勝した中村誠師範の本部の堀池選手も、全日本を5回ほど制し、世界大会でも2位を2回とった国内最強の数見はじめ選手と対戦し、3対2の判定で負けましたが、私のような素人の目では、どちらが勝ったかわからないような試合でした。又、私の通っていた道場から最近、下川兄弟の弟がロシアで行われえた極真の世界大会で優勝し、お兄さんの方もキックボクシングで世界チャンピオンとなりました。私がある20代の頃に極真空手の試合に出て1回戦で負けましたが、最後の試合にでた選手が中村誠師範のところに集められえたときに、こう話していました。この道場を亡き大山倍達総裁に見てほしかったのはもちろんだが、一番は、亡くなった父と母に見て欲しかった。と、述べていましたが、さすがに極真空手で世界を二度取った方だけに言葉に重みがズシリとありました。少し中村誠師範の現役の時の話をしていきたいと思います。中村誠師範は、東京の池袋の本部時節の現役の時に、先輩達からスナックに飲みにいこうと誘われ、いってみると、ぐいぐい先輩たちから酒をのまされ、帰り際に、その先輩達から袋叩きのリンチを受けます。中村誠師範はそのことを大山倍達総裁に伝えると、大山倍達総裁はこう答えたそうです。中村よ、その先輩達を蹴り上げてあがってゆけ、といわれたそうです。そしてさきほどの友達のH・T君の現在は、結婚をして、娘が一人いて、介護関係の仕事で従業員を300名かかえるまでの会社の社長として頑張っています。3つ目は、ベンチプレスについての話について、私は高校1年生の時に初めてベンチプレスを挙げたときは50kg2回がやっとでした。その後地元のマッスルジムに通い20歳の時には135kgを挙げて一応は地元では一番となりました。そんな時に友達のS・K君が私にマッスルジムやめて、岩崎先生のとこけえへんか、と、いってきて、一度、岩崎ジムに遊びに行くと、200kg以上のベンチプレスをあげる人たちがごろごろいて、なんていかついジムなんだろうと思い、岩崎ジムに通うことになりました。そしてそこで学んだことはただ一つそれはサイクルトレーニングです。ある時の晩にS・K君が私のマンションに遊びに来て、S・K君があのなあ、岩崎先生がいっとったけどなあ、サイクルトレーニングしとけ、このトレーニングしとったら間違いない、いろいろ試してきたトレーニングでこれが1番のびますからというのを、S・K君が私に教えてくれえたのです。サイクルトレーニングのやり方はこうです。まず軽い重量のバーベルやダンベルからはじめていき、徐々に重量をあげてゆき、1ヵ月半くらいで体をピークに持ちえてゆき、そして11日間ほど体を完全に休ませます。そして又、1ヵ月半くらいで体をウエイトトレーニングでピークに持ちえてゆき、そしてピークがきませば、11日間体を完全に休ませます。そうすると7日目くらいから食欲が戻ってきて、体の疲れがとれ、またトレーニングをはじめられえるのです。ここまで記すともうお分かりだと思いますが、サイクルトレーニングとはリスクとリラックスを上手にとり入れえたトレーニングの帝王学ともいえますし、なんどもくり返してできることからリサイクルトレーニングともいえます。たとえば、読み終えた、新聞や、使い終えた、空き缶などは、溶かしてまた新しい新聞や缶となります。それらと原理は同じです。そうしてサイクルトレーニングを何年も続けていると筋肉が少しずつついてゆき、知らぬ間に重たい重量のベンチプレスを挙げることができるのです。岩崎先生は、ベンチプレスの全日本125kg級で7回優勝し、その後ベンチプレスシニア世界大会で優勝し、ベンチプレスの世界一に輝いています。その岩崎先生が自らの体で何十種類ものトレーニングをためしてきて、このサイクルトレーニングが一番早く伸びますからと言ってS・K君に教えたのを、S・K君が私に教えてくれえたのでした。そして29歳の冬に急性扁桃炎をこじらせ私のベンチプレスの夢と目標はなくなりました。結果は、ベンチプレス生で150kgという中くらいの強さでおわり、その後S・K君はベンチプレスを30代に入って、生で200kg挙げ、今は児玉選手という世界大会14連覇した選手の記録をぬりかえるのに頑張っています。もう一つ、S・K君から教えていただいたことは、腹が立つことがあってもぐっと我慢すれば、必ずいい事があるということも教えていただきました。現在のS・K君は先祖の土地の相続や株やドルでかって、18億円あまりのおカネを持ちえています。4つ目は、宮本武蔵の話について、これまでは勉強面である頭脳の話とスポーツ面の体力のお話をさせていただきましたが、少し戦国時節に存在した宮本武蔵の話をしていきたいと思います。宮本武蔵は、子供の頃から、売られたケンカは必ずかい、木刀で相手をメッタ打ちにしていました。そんなある日のこと、沢庵和尚というお坊様に騙されえて木にくくりつけられます。そして沢庵和尚は、こういいます。武蔵よ、お前は確かに強い、だが今のざまを見て見ろ、これからは人に騙されないように頭も勉強して鍛えなさい、と、言われます。それから宮本武蔵は姫路城に入って数年間ひたすら勉強に励みます。そうしているある日、一通の挑戦状が宮本武蔵のところに届きます。その相手は、佐々木小次郎という、飛んでいるツバメをも2刀流で斬り落とすほどの剣術の持ち主でした。宮本武蔵は、その挑戦を承諾し、巌流島で戦うことになります。しかし、佐々木小次郎が約束の時間に待てども待てども宮本武蔵はやってきません。そしてかなりおくれえて舟でやってきます。そして着いてすぐに舟のオールで佐々木小次郎叩き殺し勝利します。この遅れえてきたことには、わざと時間を遅らせ佐々木小次郎にプレッシャーを与えたとも言われえていますが、文武両道をかね備えた宮本武蔵には、もはや、敵はいませんでした。そして五輪の書を記し残し、晩年は山奥の洞穴で一人静かに死んでいったと言われえています。このお話は、今から約500年前の日本の戦国時節の関ヶ原の合戦のときあたりのお話でした。今まで述べた事は、意味があり価値があり、ノートの問いを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、世界のナショナルの松下幸之助氏の松下電器産業の番頭をしていた方に後藤せいいち氏という方がいました。後藤せいいち氏は、中学を出たあと松下電器産業に工員として入社しました。そして後藤せいいち氏があまりに頑張るのを皮肉に感じた先輩達から袋叩きにされえたりしました。それでも歯を食いしばり世界のナショナルの番頭にまでのしあがったのです。そんな後藤せいいち氏は仕事が終わって家に帰ってからの8時~10時はゴールデンタイムの時間でした。そのゴールデンタイムに何をしていたのかといいますと、実は、読書をしていたのです。とくに人情ものの小説が好きだったとありました。その後藤せいいち氏いわく勉強は、地位や名誉や財産は関係なく、自分自身の成長の為です、と、ありました。又この後藤せいいち氏とは、まったく違う仕事の日本を代表する500本あまりのホームラン打ちはなった、不屈のホームランバッターの清原選手について少しお話をしていきたいと思います。清原選手は大阪府の岸和田市の出身で小中学校と野球チームに入って頑張ります。そして清原選手はPL学園に進み、そこで桑田投手と出逢い、チームの二本柱としてめきめきと実力をあげてゆきます。PL学園の練習は血反吐が出るほど厳しく、野球の練習が終わったあとに、恐怖の30分走というのがあってグラウンドを30分間永遠と走りつづけるという、それも野球の練習で疲れえた体にムチ打つように、30分間永遠と皆チーム全員1年から3年までが走らされるのです。この恐怖の30分走はPL学園の名物のトレーニングとして有名です。また、清原選手と桑田投手は全く違う性格をしていて、桑田投手は学校の授業中に先生の話をちゃんと聞いて真面目にノートをとるのですが、一方の清原選手は、机の上で熟睡しています。そして授業終了のチャイムが鳴ってから、桑田投手は清原選手に、おい、ちゃんと俺がノートとっておいたから、写しておけよと自分のノートを清原選手にノートを差し出していたのです。そして番長清原選手が4番を打ち、桑田投手が投げて、甲子園の全国大会で春、夏を制覇することを数回し、そうして高校3年生のときに運命のプロ野球ドラフト会議が始まります。清原選手は巨人軍入りを熱望し、桑田投手は早稲田大学進学を希望します。そしてドラフト会議が終わり、テレビを観ていた二人は、衝撃を受けます。巨人の1位指名は、桑田投手で、西武ライオンズの1位指名は清原選手という結果に清原選手は号泣します。そうして清原選手と桑田投手がそれぞれのチームで活躍しているときに事故が起こります。PL学園の清原選手、桑田投手の1つ上の先輩の清水哲先輩が同志社大学に進んで、近畿大学と交流試合をすることになり、清水哲先輩は、塁に出て、そして1塁ベースから2塁ベースにヘッドスライディングをしたときに相手の近畿大学の選手と衝突して、首の骨が折れ、急遽、近畿大学医学部附属病院で手術をすることになり、つぎの日に手術は成功とありましたが、その後、手術はしっぱいしていることがわかり清水哲先輩は首から下が不随となってしまいます。そして清原選手や桑田投手もOffになるたびに清水哲先輩を見舞いに行き、清水哲先輩は、口で加えたペンでコンピューターを使って本を記します。それが清水哲著『桑田、清原よ、生きる勇気をありがとう』という本を出版します。その中では、PL学園の裏山では夏になるとカブト虫がとれえたり、PL学園のそばに美味しいラーメン屋があることなどが記されえていました。とくに清水哲先輩と桑田投手の関係が強く、練習が終わると、よく桑田投手に清水哲先輩がしょっちゅうマッサージをさせていたとあり、桑田投手の本にも同じく清水哲先輩のマッサージをさせられえていたけど、これも手首や指先を鍛えるトレーニングであるというふうに自分をポジティブに持ちえていったとありました。そんな桑田投手も一時、肘の故障で1軍のマウンドに立てず、ひたすら玉川の巨人軍の練習グラウンドの周りを走りつづけ、桑田投手が走ったあとの芝生が枯れえたことから、桑田ロードといわれえています。そして桑田投手は、思い詰めビルの屋上にのぼって柵を越え、あと一歩のところで飛び下り自殺をしようと思えたときに、脳裏に清水哲先輩の首から下が不随という姿が浮かび上がり、自殺を踏み止まり、しばらくしてアメリカで肘の手術に成功し、又、FAで西武ライオンズから巨人軍へ入団した清原選手と桑田投手の活躍で巨人はリーグ優勝し、クライマックスシリーズでも勝ち日本一へと巨人軍を導きます。そんな清原選手にあるマスコミ関係者が、清原選手にとって野球とは一体なんですかと尋ねると、清原選手は、野球は地位や名誉や財産は関係なく、自分自身の成長の為です、と、答えました。最後に一昔前の五千円札に登場した新渡戸稲造氏という方がいました。新渡戸稲造氏は、日本の外交官として活躍後、晩年は大学教授などをしていましたクリスチャンの方ですが、私はその新渡戸稲造著の『自分を365日成長させる生き方』という本を読みました。そこでは新渡戸稲造先生は自分自身の成長を妨げるものとして、酒、女、バクチにははまらないこと、と、ありました。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない涙目で微笑む神様の恵みによって支えられえている中をなくしたものを取り戻す強く信じる力で生きてゆく、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わりゆく明るい未来への星の魔法のバードフライパラダイスのメッセージとなるのであります。」・・・・・次は、トライ・アゲインへと移動します。・・・・・→→→