・・・・・[恋は甘い毒を変更いたしまして、ノートの問いへと移動します。]・・・・・→→→【24歳~29歳までK会社(土木)】とあります。・・・・・→→→「今から3つの話をしていきたいと思います。1つ目は、丸4年間のサラリーマン生活を終えての話について、私は20歳から24歳までの丸4年間、三菱の子会社の技術員としてサラリーマンをし、国家資格である2級土木施工管理技術士とK電力所のC級現場代理人の資格を習得し、下請けのK会社で一から土木作業員として働くことになりました。その頃の24歳の4月といえば1999年の4月でしたので終末説である1999年の夏まであと3ヵ月でした。私の心の中では、もう少しは、サラリーマンで勉強したかったという念もありましたが、そんなことよりも、1999年の夏の終末説、つまり地球が滅亡するということのほうがかなり心配というより、本気で信じていましたので、1999年の夏頃にいつ隕石が飛んできて、地球がなくなるのかとおどおどしていました。そして私は母親に言って3ヵ月の休暇を申し出て、了解していただきました。そして毎日17時間ひたすら眠るという日々がつづきました。そしてそうするとエアーポケットに入ってしまい鬱の状態がしばらくつづきました。このエアーポケットというのは、サラリーマンなどに多く、長く勤めてきた会社をいきなり、解雇されえたり、左遷されえたりしたときに起る、鬱の状態ですが、これは勤めた年数と頑張った量に比例して、その人それぞれに襲いかかってくる鬱の状態で、脱出する方法は早く違う仕事を見つけるか、それが無理な場合は、一番信用できる親や兄弟姉妹や家族と一緒に住ませていただき、食事などをよくなるまでつくっていただいたり、又は、違う仕事が見つかるまで、誰か一緒にいていただいたほうがいいです。人によってはそれでも立ち直れないときには、早目に精神科で診察していただくことを強くお勧めします。そうして私は鬱の状態のエアーポケットに入ったままになり、夜中に目が覚めるとマンションの居間の四隅が牢屋に入れられえたような感じに襲われ、また誰れかに助けを求めることもできませんでした。そして3ヵ月の休暇が終わって、夏場に、現場に出て、仕事をやりはじめていくと少しずつエアーポケットから抜け出すことができました。しかし、もうその時には1999年の7月せまりきて、いつ地球に隕石が飛んできて、地球が爆発してなくなるのかと人にはいえませんでしたが心の中では恐怖に怯えていました。そして7月がきて、いよいよかと思えていましたが何も起こらず、つぎに8月がきたときに8月がきたか、夏の本番だ、いよいよかと思えていましたが何も起こらず、9月になって、もう夏はすぎてゆくぞと思えていますと、10月となり、11月となり、ノストラダムスの大予言の終末説の予言ははずれえたかと思いました。私はそれいらい予言や占いを一切信じなくなり、もし予言や占いが当たるならば、明日のレースを当ててみろという考えに変化したのです。しかしながら、この世の中には、他人には言えない悩みを抱えている人々は5万といます。そのような人々の相談にのるのに占い師や霊媒師という職業があってもいいとも思います。でも中学2年生の時に兄の勧めで読んだノストラダムスの大予言や同時期に学校の授業で習った仏教の開祖シャクソンの末法思想などのおかげで、その中学2年生から24歳の夏までの10年間は、死刑台に立たされえた死刑囚のような心境でした。そのおかけで私の脳にあるリミッターはカットされえたのでした。2つ目は、新たな志を持ちえてK会社(土木)に臨む話について、私の住む、住之江区や隣の西成区には、不良連中が多く、また体もごつい者も多数いました。その時にサラリーマン生活では随分と脳は鍛えられえたなあ、よし今度は目標を極真空手で世界一、ベンチプレスで世界一というとてつもなく無謀な目標を打ち立てたのでした。その土木現場では、力仕事がメインとなりますので筋肉をつけるには、絶好の環境でした。人間には、大きく分けて3つの成長させる方法があります。一つは、勉強や本を読んで脳を鍛えること、二つは、体を鍛えて筋肉をつけ身体能力を向上させ鍛えること、三つは、頭脳と体の両方を鍛えるという、この3つですが、頭脳にしても暗記を積み重ねていく勉強法や本を沢山読んで考える能力を身につけていくなど、又、体にも有酸素運動や、無酸素運動といった運動などそれらをさらに専門的分野に分けていきますとキリがありませんが、私のような単純なバカには、複雑な計算や暗記ものはむいてなく、本読み一本にしぼり、23歳からあとで話しますが35歳まであらゆるジャンルの本を年間120冊ペース、つまり3日に1冊のペースで12年間読み、その毎年のノルマをほぼクリアーしてきました。24歳からの肉体労働に入ってからは、まさに本読み一本にしぼり込み、このあたりの古本屋は全部定期的に回っては、100円~300円の本を買い、特に100円コーナーで掘り出し物があるのを探してきては読みふけっていました。そのように昼は労働、夜や休みは本読みにあけくれえるという生活をしていたのです。極真空手で世界一や、ベンチプレスで世界一にはなれないということは、はじめからわかっていました。でもベンチプレスで全日本チャンピオンになり、世界チャンピオンにもなりかけた黒岩氏という方からのアドバイスで、目標は高く持ちえなさい言われえていました。たとえば、ベンチプレスで大阪チャンピオンになるぞという目標を立ててしまうと、もし本当に大阪チャンピオンになってしまえば成長はそこでストップしてしまうからです。ですから無理とわかっていても目標は高く持ちえなさいとアドバイスしていただいた私は、かなり無謀な極真空手で世界一、ベンチプレスで世界一という目標を持ちえながらK会社での現場の肉体労働の仕事に臨んだのです。3つ目は、狂った土方と呼ばれえるほど働いた話について、私はそのような目標を立て、体を使った力仕事で筋肉がつく、そしておまけにお給料もいただけるという中で、現場では、その昔に現場監督とケンカになり、その監督の尻をノコギリで斬って、懲役7年務めた、型枠職人あがりのかなり気性の荒いコテコテの職人のY・Mさんにつけられました。この方に私は、足腰たたんようになるまで使っていただきたいと言って、現場で、おい、あれかついでこい、おい、これ運んでいけというぐあいに、仕事が進んでいきましたが、私が何も言わずにもくもくと手元をするのでY・Mさんから気に入られ、焼肉をよくご馳走になりました。そして、私のことを見ていたY・Mさんは、昔の土方みたいじゃのう、とか、狂った土方じゃ、というほどまでに何も言わずにただひたすら、これをしろと言われたことに全力で力をふりそそぎました。そしてあるとき岡山県出身のY・Mさんは、私にこっちこい、こっちこい、と手招きをします。私は行ってみると、砂面に、指でなぞり記しをしています。その言葉は、宮本武蔵の言葉で、『人間生きている時楽しかったら死ぬ時苦しい、人間生きている時に苦しかったら死ぬ時楽しい。』という言葉をY・Mさんは私に伝授してくれえたのです。今まで述べた事は、意味があり価値があり、ノートの問いを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、そんなガムシャラに働いていた私に災難が与えられます。29歳の冬に、その日は激しく喉が痛みヨーグルトが喉を通らないほどの痛みで、自分の中で、これくらいで働いている人たちに迷惑をかけてたまるかと思い、雨が降る真冬の現場に出ました。そして数時間して体調と気分が悪くなり、現場の班長だったK氏からバファリンを2錠いただき、それを飲むとさらに気分が悪くなり、立っていられない状態となり、ふたたびK班長に、そのことを告げるとダンプで帰れといわれ、私は仕方なく猛スピードで自宅に向かいましたが、中央大道路で渋滞に巻き込まれ、これはもうダメやと思えていると少し先にガソリンスタンドがあるのが目に入り、そのガソリンスタンドに飛び込み、女性店員に救急車をお願いしますといいました。そして待っている時にも、立っていられず、すわることもできない状態で、神様にどうか命だけはお助けくださいと祈りました。そしてしばらくして救急車がやってきて、その時はもう過呼吸の状態でしたので、救急隊員の人が、心配ありませんから、大きく深呼吸してくださいといって、私は大きく深呼吸し、そして羽曳野の病院につき、そしてしばらくして母と兄が迎えにきてくれえて夜に帰る途中に、ふたたび気分が悪くなり、兄にさきほどの病院にもう一回戻ってほしいといって、1日入院し、私は先生に地元の病院にいきたいのでというと、先生はわかりました。それでは、抗生剤の点滴を一本してあげましょう、と、言って私は点滴を受け何とか自宅に兄が送ってくれましたが、マンションについても気分が悪く吐き気がして立っていられず、座っていられずの状態でした。そこにお手伝いのTさんという女性の奥さんがいてくれえて、しばらくして母と兄を呼んでくれ、私は住之江病院に向かいました。そして入院をお願いしましたが、先生からそう簡単には入院はできません。採血の結果をみてから判断しますと言ってそしてしばらくすると入院ですといわれ、兄が先生から聞くところによると、血液の炎症の数値が通常の3倍にまで上がっていたことから入院となりました。そしてその日の夜から熱が40度まであがり、抗生剤の点滴をしても、座薬をしていただいても、一時は熱が下がるのですが30分くらいすると、また40度にもどり、私は、昔テレビで観た耳鼻咽喉科の名医の先生が喉風邪を引いたときの治療として、イソジンを濃い目に水で溶かしたコップでうがいを30分に1回していました。それでも胃のあたりからくる強烈な吐き気と気分の悪さでナースコールを1時間に1回ペースくらいで鳴らしていると、その中の女性の看護師がキレえて、何回鳴らしたら気がすむんじゃと、怒鳴ってきましたが、それでも私はナースコールを押し続けました。数日して母が見舞いにきたときに、その気性の荒い看護師の女性がいて、私に母が、具合はどうやたいしたことないやろというと、その看護師はまたキレえて、本人見たら状態わかるやろと怒鳴ってくれました。そして熱は約2週間でおさまってゆき、最後のほうで喉からトウモロコシ位の大きさの白い喉に張りついていた膿がぼこぼこでてきました。イソジンは赤い液体なのがうがいをすると紫に変色するほどの菌でした。結局病名は、急性扁桃炎という診断結果がでて、私はときおり激しく襲ってくる吐き気を噛み殺し一旦実家に帰りました。ところが熱はないのに又吐き気がおこり、気分が悪くなります。私はそのことを母に告げると、病院にいっておいでというので病院に急患で100回位いったと思います。そして先生が胃カメラ検査をしてみましょうというので、胃カメラ検査をしていただくと、十二指腸潰瘍になっていることがわかりました。そしてピロル菌を殺す抗生剤を2週間位服用して、やっとこれで治ったかと思えていると、ふたたび原因不明の吐き気が襲ってきて、気分が悪くなり、また急患で住之江病院にいってガスターの点滴をしていただくと1時間位でましになり、そのような日々が7ヵ月つづいたときに私はもうアカンと思い、マンションも車も亀11匹もすべて手放し、日本生命の保険にサインをして、死ぬのを待っていました。するとある日に母が実家から少し離れえたところのM病院に胃腸の名医がいるというのをききつけて、1日入院し、おえおえ吐き気がする中で、2回目の胃カメラ検査をしていただくと、十二指腸潰瘍の跡はあるけど治っています。そんなにひどいのなら一度精神科でみてもらいなさいと言われ、紹介状を記していただき、私たち団子三兄弟が産まれえた住吉市民病院のE先生という女性の先生に診ていただくことになり、全てのなりゆきから症状を全部話すと、パニックですと言われました。そしてルボックス(SSRI)を1日1錠から始まり、1ヵ月半くらいで、少しずつ吐き気がおさまっていくのがわかりました。その時にE先生が神様に思えました。しかし、今度は全くやる気がおきずに、仕事にも10回位挑みましたが、途中で帰ってしまったり、ただ立っているだけのような状況となり、最後は仕事にいくと私の仕事用の長靴がゴミ箱に捨てられえていました。誰がやったのかわかりませんが、これで私の現場仕事にピリオドが打たれたなとそう思えました。そしていとこのM・Y氏から、兄ちゃんマリファナ吸って女とSEXしたら、100倍気持ちええで聞いたバカな私は、ほんまかといって、西成区の売人通りでマリファナを買って風俗にいってSEXをしました。しかし、M・Y氏いう100倍気持ちいいというのは大げさで嘘でしたが、徐々に私はマリファナ中毒者へとはまっていったのでした。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない涙目で微笑む神様の恵みによって支えられえている中をなくしたものを取り戻す強く信じる力で生きてゆく、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わり明るい未来への星の魔法のバードフライパラダイスのメッセージとなるのであります。」・・・・・次のノートの問いへと参入します。・・・・・→→→