・・・・・【高校→2年間ゴルフ部。】とあります。・・・・・→→→「★今から4つの話をしていきたいと思います。1つ目は、私学のK高校に入ったキッカケについての話について、高校にいくのは、無理と言われえていた私でしたが、中学2年生のときは中間テスト、期末テストでは、80~90点をとっていて、中学3年生のときに担任のE先生から君の内申書は10段階の4やでといわれました。そんなときに私が小学5年生から中学3年生までずっと同じクラスで好きだったO・Kさんがラグビー部の不良グループのS・K氏とつき合いだし、私は、1999年のノストラダムスの大予言と、中学2年生のときに学校の社会の授業で習った仏教の開祖のシャカの末法思想で、1999年の世紀末で地球が滅亡するということを学び、この終末説に加え、その不良グループのS・K君がO・Kさんと中学2年生のときにつき合いだし、私は、ストレスにストレスがトリプルに重なってノイローゼの状態となり、髪から白いフケが沢山出てきたりして、制服の肩のところにそのフケが沢山ついていて、通りかかりの生徒から、君の制服にチョークの粉が沢山ついてるでと言われ、私はほんまにと言葉を交わしましたが、心の中では、(これは終末説や末法思想やO・KさんがS・K氏とつき合ったことについてストレスにストレスが重なり、ノイローゼとなり、神経からきているフケじゃアホと心の中で叫びました。)そうしていると私はラグビー部に中学1年生のときから所属していたのですが補欠でしたので高校にいくあてもなく、中学3年生の夏の合宿をおえて、大会にでれば引退という、その夏の合宿前に監督のK先生に高校にいきたいのでやめさせていただきます。と、言ってラグビー部を辞めました。そんなときにたまたま、好きだったO・Kさんを奪われえた恋の宿敵であるS・K氏が私学のK高校に入れば女の子にもてるでって俺の姉ちゃんが言っとたでというのを聞き、そうかK高校に入れば、女の子にもてるのかと思い半年ぐらい必死で勉強に打ち込みました。私学の男子校であるK高校は、今から30数年前は、大阪の約500校の高校の中でも下から数えたほうが早いほど、偏差値的にはレベルの低い高校でしたが、私は赤本を必死に勉強し、K高校専願で受け、専願、併願合わせて8.8倍の競争率でしたが奇跡的に合格することができ、このことに父は大喜びし、二人でバンザイを3回し、ワニガメを入学祝として3匹買っていただきました。K高校は勉強ではレベルの低い高校でしたが、私の父親の時節に夏の甲子園(野球)で全国1位になったほどの高校で私の父もK高校は頭はそんなたいしたことなかったけどなあ、とても活気のある高校やったと言っていました。そのようなキッカケで私学の男子校であるK高校に入ることになります。2つ目は、なぜゴルフ部に入ったかについて、私はK高校に入ったもののシンナーばかりをよく吸い、勉強せず、クラブにも入らずダラダラと過ごしていました。そんな夏休み前のテストのときにたまたま私は食堂の自動販売機でジュースでも買おうかと思い、買いにいくとY氏というラグビー部の3年が自動販売機の前に立っていて、Y氏と私は目が合い、Y氏からお前ちょっとこいといわれ、ついてゆくと、ラグビー部の部室につれえていかれ、そのときにラグビー部の部室では、数名のラグビー部の生徒がタバコを吸っていて、Y氏と私がその部室に入るなり、皆が出てゆき、そして私はY氏からお前のクラスにラグビー部は誰がいてるんじゃと言ってきました。私は2人ぐらい知っていましたが誰が入っているかなどわかりませんし、考えもしていませんので、そんなこといちいち知りませんと言った瞬間、口元にパンチをくらい、口の中が切れえて血がでてきました。Y氏はちょっと見せてみろといってきたときには、私の脳の線が一本切れえていました。即座に鉄の椅子をにぎり顔面めがけてなぐりかかりました。その後つかみ合いとなり、ラグビー部室から出るなり、先生や職員の方々が沢山でてきて、私は病院につれえていかれ、5針ほど口の中を縫いました。その後、先生2人とY氏と私が、車で私の実家に向かったのはいいのですが、何の反省もなく先生と笑い話をしておちょけていて、実家についたとたん私の母を見ていきなりY氏は涙を流しながら謝り出しました。納得のいかなかった私は壁を蹴りあげ、部屋にとじこまりました。そして父が帰ってきたときにその成り行きを全て話すと、父は怒り狂い、Y氏とY氏の父親と先生を夜の夜中に呼び出し、はじめはY氏の顔を見るなりゴルフクラブで殴りにかかったところを亡き母の弟のM・T兄さんらがとめ、その後、数時間Y氏は板間で正座をさせられ私の父からコテンパンに説教されえていました。そんなときに、ゴルフ部の副顧問のN先生や国語を教えるH先生からゴルフ部に入れへんかと言ってきて、私は実家に帰り父にそのことを話すと、それはいいことや、すぐに入りなさいといわれえて1年の途中からゴルフ部に入ることになりました。それがゴルフ部に入ったキッカケです。3つ目は、ゴルフ部に入ってすぐに起った事件についての話について、そんな私でしたがシンナーもやめ、ゴルフ部の練習に打ち込みだし、監督のM・H先生やN先生からお前は勉強で大学にいくのは無理や、ゴルフで大学を目指せと言われ、私も大学に入れば合コンとかで可愛い女の子がいっぱいくるんだろうと思い、毎日500発のゴルフボールを打ち込んでいて、そして父の知人のKさんというプロテストに1打差で2回落ちたもののアマの大会では沢山優勝した方からレッスンを受けていたある日の学校の授業が終わって大阪の堺の中百舌鳥のゴルフ部のOBの方が経営する小さなゴルフ練習場にいったときにその事件は起こりました。のちの副キャプテンとなるK氏が、本当なら、そのゴルフの練習場で練習が終われば、支配人にありがとうございましたと礼を言って頭をさげて帰らないといけないことになっていたのにそのK氏が私に、ええやん、ええやんと言って、挨拶をせんと帰ろうといい、私は、ええんかといって、まあええかと思いそのまま帰りました。そして中百舌鳥の駅につくと、コラーと怒鳴りながらY先輩という一つ上の学年の先輩らが数名ゴルフクラブを持ちえて走ってきて、Y先輩から、お前支配人に挨拶して帰ったかといわれ、私はしていませんというと、ケツだせといわれ、Y先輩から思いきり、ケッパンをされ、張本人のK氏のほうは注意だけで終わり、私は実家に帰り、青あざになった尻を見て、その日の晩は手から汗がとまらず眠れませんでした。そしてつぎの日に私はY先輩を呼び出し、つかみ合いとなりこかしてなぐり、馬乗りになっているところで、一つ上の学年のキャプテンのT先輩ら数名がきて、私は顔面を蹴られそのままリンチされ気絶し、気が付けば、病院にはこばれえていて、私は幸い軽傷ですみましたが、Y先輩は鼻の骨にひびが入る大けがをしました。そして私は病院の椅子を蹴りあげて家に帰ってそのことを全て父に話すと、父は、今回のことはお前が悪い、そんなことでゴルフ部の組織が成り立つんかといわれ、ええから明日Tキャプテンのところにいってすきなだけどついてくださいと言ってこいと言われ、私はつぎの日に学校に行きTキャプテンをにらみながら好きなだけどついてくださいよといいました。4つ目は、グアムの遠征試合についての話について、そして私はなぜかキャプテンに選ばれ、K氏とE氏が副キャプテンとなり、3年の夏休みにグアムに遠征試合にいきました。しかし、数十年に一度という最高風速80mのハリーケーンに襲われ、結局試合は中止となり、私たちが泊まっていたトロピカルホテルもガラスが割れえたり、外ではやしの木が折れえていたりといった、まったくさんざんな目に遭わされえて、ストレスも私自身最高

ちょうに達していたときに、私とK氏がいて、N先生から水がでえへんから、ゴミ箱で水を汲んできてくれと頼まれ、私はわかりましたというと、すぐにK氏は姿を消し、私が一人でその重い水をN先生のところまでとどけました。そこで私はK氏はどこにいったんじゃと思えていると、何ドルかで買ったジッポーライターを手の上で転がしてのんきに歩いているのを発見して、私は走っていってまず一発なぐりました。すると警笛が鳴って、白人のポリスがきて、とめられましたが、トロピカルホテルにいっても、私の怒りは収まりませんでした。私はあのY先輩との出来事も思い出し、階段に昇っていく途中の一番上からK氏にめがけてまず飛び蹴り一発くらわしました。そして部屋が同じだった私とK氏は、ベットのところで、私が説教を淡々としていると気が付いてK氏を見ると眠っていたので、私はローソクの瓶でK氏が泣くまでめった打ちにしました。今まで述べた事は、意味があり価値があり、ノートの問いを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、そしてグアムから東京経由で大阪につき、ゴルフ部での2年間は引退となり、つぎに歴代のキャプテンは大阪K大学に推薦で入ることが約束されえていたのに、私と副キャプテンのE氏が受けて私は不合格となり、E氏は合格しました。その後、監督のM・H先生から岡山県のゴルフのプロの養成所に行けといわれましたが、どうしようと迷っているときに、N先生とH先生が私のところにきて、お前でも入れえるかもわからん大学があったぞといわれ、N短期大学を教えてくれ、そして学年で3名までが受けれえる推薦状を持ちえて、また、たまたま、N短期大学の教授と知り合いだった私の母の銀行員時節の先輩のAさんが口ききをしてくれ、私は半年間猛勉強し、何とか合格してひろっていただきました。そしてしばらくして実家にいるときに三重のM大学という私学の大学のゴルフ部の先生から連絡があり、私はN短期大学に合格しましたといういきさつを伝えると、そうかといわれ、それじゃあと言って電話を切りました。おそらく私がゴルフで頑張りますからよろしくお願いいたしますといっていれば、その監督は合格させてくれえていたかもしれませんが、でも、三重のM大学にたとえ入っていても、サラリーマンのときに上司から聞くと、M大学では就職はないといっていました。阪大、京大、東大、それぞれの国公立大学にくらべれば、かなりレベルの低いそこらの大学だったのかもしれません。しかし、今の私学のK高校をインターネットで調べてみると大阪の約500校の高校で上から100番ぐらいまでK高校はレベルが上がっていて、京大にも数名合格していて、そして私を救ってくれえたあのゴルフ部の副顧問のN先生が30数年の歳月を経て校長先生となっていたのでした。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない涙目で微笑む神様の恵みによって支えられえている中をなくしてものを取り戻す強く信じる力で生きてゆく、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わりゆく明るい未来への星の魔法のバードフライパラダイスのメッセージとなるのであります。」・・・・・次のノートの問いへと参入します。・・・・・→→→