・・・・・《後期の190名の女性の方々》・・・・・「4、・・・・・【第4グループ】・・・・・→①、私の母の弟の長女のM・Kです。桃山大学を卒業後に家庭教師を長い間していて、ホテルで勤め出し、今は群馬のキャベツ農家に嫁ぎながらホテルで働いています。私の8つほど年下です。その私の母の弟のM・T兄さんは、41歳という若さで肺癌の末期となってしまい、今私がブログを打っているこの会社の社長をしていました。そして三菱の子会社の元請けとY組と二つの元請けの仕事していたのですが、M・T兄さんがいきているときに、私の母にY組のほうをのれん分けしてくれ、仕事も順調に進んでいたときのいわば事故のようなものです。M・T兄さんは妻のE姉さんに本当の病状を教えてくれと言われ、本当にそのままあと数ヵ月の命といいました。気が狂ってしまったT兄さんは、私の母が日赤病院に夜に見舞いにいってみると廊下を涙を流しながらくるくる回っていました。私の母はなんとかしなくてはいけないと思い、医師の先生に相談すると、先生は任せてください、といいました。そしてM・T兄さんに再検査をして手術をしますといって、胸に縫い跡をのこして、手術は成功しましたといいました。そしてM・T兄さんは医師にあとどれぐらい癌は残っていますかと言うと、ほんの少しだけですといいました。M・T兄さんはみるみる元気になってゆき、一時帰宅も許され、私ともう一人のM・TH兄さんで付き添って家まで連れえてかえりましたが、帰ってすぐにE姉さんが作った天ぷらうどんを食べて、次の日に体調が悪化し、そのまま帰らぬ人となりました。死ぬ直前にM・T兄さんは私に、長女のM・Kと長男のM・Yを頼むぞといい残していましたので、私はM・Y氏の面倒を子供から35歳か36歳くらいまで面倒をみました。M・Kのほうは私の兄や私の弟のほうが相談や面倒をみていました。M・Y氏のほうは帝塚山の豪邸を売却し、お姉さんに半分渡し、最後の数年前に加賀屋のスナックにM・Y氏と飲みに行くと財布から帯二つの200万円を私にみせてきて、その後はラインを打っても既読がつかない状態のまま今は、ミナミでホストクラブにしっぱいし、また、派手な使い方をしたのか、ハイヤーの最高豪ジャスカーに乗り、ブランド物で身を固め、パチンコに狂い、今は、長野県で車の部品工場ではたらきながら、借り入れを返済していっているとM・Kからききました。M・T兄さんの死に顔は、この世の全ての苦しみを背負ったような苦しそうな形相でした。・・・・・→②、私の父の弟のM・Aおじさんの次女のM・Hです。20代後半までは、本当に小泉今日子そっくりな顔でとても可愛かったのですが、30歳くらいから見かけなくなり、M・Hの母のM・MおばさんからきくとHは今はかなり太って立ったままでは靴下をはくことができない状態になりながらも会社につとめて頑張っているそうです。私の二つ年下です。このM・Hは前期の387名の女性の方々の一番最後にでてきます。ところで先ほどはM・T兄さんがこの世の苦しみを全て背負った顔で死んでいったということを話しましたが、私の父の弟のM・Aおじさんも喉の癌になり長野県の喉の癌手術では日本一といわれえていた先生から手術を受けましたが、8年くらいしてから、癌が肝臓に転移して最後は阪大病院でなくなりましたが、お通夜にいってびっくりしたのは、死に顔が笑っていたのです。どちらの叔父さんも私はよく面倒をみていただきましたが、あるとき、私の表の師匠のY・Mさんが、現場で手招きして、私にこっちこいこっちこいというので行ってみると何か地面の砂地に指で文字を記してゆきました。その言葉は、宮本武蔵の言葉で、『人間生きている楽しかったら死ぬとき苦しい、人間生きている苦しかったら死ぬとき楽しい。』という言葉でしたが、M・T兄さんは生きている時はさまざまなスポーツカーを乗り回し、女遊びも豪快でしたが、M・Aおじさんは、あまりよくわかりませんが、子供の頃はとても貧しく苦労したことだけはしっていて、その後も苦労したのかなと思いました。今まで述べた事は、意味があり価値があり、キペラを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、いとこの話で心が苦しいのですが、私が中学2年のときにこの会社でおばあちゃんと私とM・KとM・Y氏がいて、私は女の子の子宮がどんなんなのか見たかったために、おばあちゃんが隣の部屋にいるところのすきをついてM・Kのパンティーをぬがせ子宮を確認しました。そのときにM・Y氏がやめろといってかかってきたので、頭を一発はたきました。このことは私が悪かったと反省しています。いくらアホだったといってもそのようなことをしてはいけないことの判別くらいはついたと思います。私のことをすみずみまで知るM・Y氏ですが、私はそれいがいにももう一回しばき回したことがあります。それは私がマリファナで警察につかまり留置所に22日間入って仮釈放されえたときに、少ししてマリファナを持ちえて、兄ちゃんこのマリファナ全然きかへんといって持ちえて来て、私は、その持ちえて来たマリファナをすぐにゴミ箱に捨てろいい、そして警察に通報しました。そして警察が来てゴミ箱のマリファナを調べ、その日の夕方にM・Y氏は取り調べを受け、そして数日後に留置所に11日間入りました。その出てきてから、ずっと私にふてぶてしい態度で接してきて、ある日にマス釣り行こうといって誘って、M・Y氏も行くわと言って、M・Y氏の自宅前で待てども待てども出てきません。恐る恐る家の中に入ると寝ていました。私は起こし、そしてマス釣りに大阪と和歌山の県境の紀見峠というところにマス釣りにいきましたが、こんどもついたのにふてぶてしく車から出てきませんでした。切れえた私は、M・Y氏のゴールドのネックレスをつかみ車の外へ引きずり出し、顔面を十発ぐらい殴りました。そして逃げようとしたので、私は逃げるなと言い、川のところで悔しいかというと悔しいというので、私は、お前を捕まえてほしい為ではなく、偽物のマリファナを売った連中を捕まえたかったんやといいました。そして、わかった。すきなだけ蹴りと顔面以外の場所を殴らしたるというとM・Y氏は兄ちゃんええで、といいながらケリを息が切れえるぐらい蹴らしてやり、胸と鎖骨辺りにパンチを受けました。私はまだまだこいというと、M・Y氏もうええわといい。そのあと、マリファナを吸って二人で遊郭の信太山にいって帰りました。M・Y氏は私のことをさんざん悪いようにも言いますが、あるとき、私の事を少年の心を持ちえているといっていました。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない神様の恵みによって支えられえている中をなくしたものを取り戻す強く信じる力で生きてゆく、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わりゆく明るい未来への星の魔法のバードフライパラダイスのメッセージとなるのであります。」・・・・・次は、【第5グループ】へと移動します。・・・・・→→→