・・・・・[恋は甘い毒を変更いたしまして、わが息子よ、君はどう生きるかへと移動します。]・・・・・→→→『わが息子よ、君はどう生きるか』、【チェスターフィールド著】、(イギリス)、・・・・・【{自慢話}で評価されえる人間はいない】・・・・・→→→「★92、しかし、こんなふうに、虚栄心や自尊心が表面に出てこないのはまだいい方で、ひどい場合になると、ほんとうにつまらないものまで引き合いに出して、露骨に自慢話を始める人がいる。君も見たことがあるだろう。ほめられえたい一心で、自慢話をしている人たちを。ところが、かれらの話がもしほんとうだとしても(そんなことはめったにないが)、それで実際にほめられえるということはないのだ。たとえば、自分とあまり関係ないこと―自分は、かの有名な大人物誰それの末裔であるとか、親戚であるとか、知人であるといったようなことを、誇らしげに話す人がいるだろう。自分の祖父はなにがしです、伯父は誰々で、親友は何々です..........と延々としゃべり続ける。おそらく、ろくに会ったこともないような人たちだろう。でも、まあそれならそれでいい。だが、それがほんとうだとして、それがどうしたというのだろう。だからといって、その人が偉いのか。そんなことはないだろう。あるいは、一人でワイン五、六本をあけた、と誇らしげに語る人がいる。その人のためにあえて言うが、それは嘘だ。そうでなければ、その人は怪物だ。このように、例を挙げればきりがないほど、私たち人間は、虚栄心のために馬鹿なことを言ったり、話を拡張したりしている。そしてそのために本来の目的を果たせず、かえって評価を下げている。本質と全く関係のないことを取り上げて自慢するということは、中身がないことを自ら暴露しているようなものだ。今まで述べた事は、意味があり価値があり、チェスターフィールドを通して語りかけるささやかな声が静かにふけゆく夜に響けり耳を澄ませば心の奥に聞こえる、この手紙では、現世に生きる私たちが何をとらえどう考えられえるでしょうか。本文では、たとえば、自分とあまり関係ないこと―自分は、かの有名な大人物誰それの末裔であるとか、親戚であるとか、知人であるといったようなことを、誇らしげに話す人がいるだろう。自分の祖父はなにがしです、伯父は誰々で、親友は何々です..........と延々としゃべり続ける。おそらく、ろくに会ったこともないような人たちだろう。でも、まあそれならそれでいい。だが、それがほんとうだとしても、それがどうしたというのだろう。だからといって、その人が偉いのか。そんなことはないだろう。とあります。確かにこの手紙にあるように、よく自分は何々の末裔だとか、祖先は誰々という人がいて、手紙では、それがどうしたというのだろう。だからといって、その人が偉いのか。そんなことはないだろう。とありますが、本当に自分自身にとって偉い人というのは、自分自身を助けてくれえた人。つまり隣人なのであります。これは、イエス・キリストの御言葉にもあるように隣人を愛しなさい。隣人とは、助けてくれえた人を示します。しかし、聖書の福音箇所では、イエス・キリストは、汝の敵を愛しなさい、とあります。私は長い間、この意味がわからずにいました。自分の敵を愛するなんてどうしてできるのですかと思えていたのです。そこでこの、汝の敵を愛しなさい、という意味を私が通っている単独教会のT・T牧師に聞いたところ、そのように広い心を持ちえていないと天の御国へ行くことはできないと教えていただきました。その時点でなるほどそういう考えもあるのかと思えていましたところに、もう一人のO牧師に同じく、汝の敵を愛しなさい、という意味を聞くと、O牧師は、ロシアとウクライナの戦争の話しをし、ロシアとウクライナは、ロシア側にもウクライナ人が沢山いて、ウクライナ側にもロシア人が沢山いる、その中でロシア人とウクライナ人の混血の人々も大勢いる、いわばロシアとウクライナは、親戚のような間柄であり、その中で戦争が起こり、現在も多数の死亡者がでているという話を教えていただきました。その時にイスラエルもパレスチナと現在戦争状態にありますが、聖書の創世記によれば、神は地上にアダムを誕生させ、そしてイブも誕生させ、そして、アブラハムが生まれえてきます。しかし、アブラハムには、サラという妻がいたのですが中々子供が産まれません。そうしていると女奴隷であった、ハガルとの間にイシュマエルという男の子が先に誕生し、その後、サラとの間にもイサクという子供が生まれました。このサラからイサクが産まれ、イサクにはヤコブという子供ができました。このヤコブが神様からのお告げで、イスラエルと名乗りなさいということで、現在のイスラエルがあります。アブラハムとサラとの血筋は、ヘブライ人=ユダヤ人となり、アブラハムとハガルとの間に生まれえたイシュマエルの血筋はアラブ人となったのです。そう考えますと、宗教は関係なく、もとを辿ればアブラハムという一人の人物から血を引くのですから、遠い親戚のような関係です。それでもイスラエルとパレスチナは、中々仲が良くならないのです。そんなときに近頃、インターネットの調べでわかったのですが、キリスト教の七徳では、寛容という言葉がでてきました。寛容とは、広い心という意味です。ロシアとウクライナにしても、ユダヤ人とアラブ人との争いにして、同じ血筋や親戚のような人々なのだからと思いますが、争いはそう簡単には、おさまりません。争いや憎しみのないところには愛は生まれないともいいます、又ケンカする夫婦ほど仲が良いともいいますが、はたしてどうでしょうか。私の母方の祖先は、私の母方の祖母から聞いたのですが、私の祖母のお父さんとそのお父さんが、2代つづけて、韓国で学者をしていたといいます。私の母方の祖母は、子供の頃に馬車に乗って学校や塾に行き、おおきな豪邸に住んでいたといいます。ところが祖母の祖父が韓国で女にはまり、日本へと逃れえてきたというのです。そこからは悲惨な生活で、祖母にも兄弟がいましたので、弟たちや、私の母を食べさすために、夜の商店街にいき、仕方なくゴミ箱に捨てられえていた野菜やくだものを拾ってきて、それを家に持ち帰りきれいに洗い、弟たちや私の母を食べさせ、飢えから救いました。そのような生活がしばらくつづき、私の母が幼いころには、今度はリヤカーでダンボールや鉄くずを拾いながら生活をしていました。そして祖母と祖父が、大阪の西成区にいってハンバ回りをして、人を集めてゆき、初めの頃は、どんな仕事でも引き受けて下水工事や水道工事としてゆき、そうして今のK電力の一次下請けとして入ることができ、私が小学3年生のころには、土木職人が90名いるまでになり、祖母は、娘である私の母や息子に一軒ずつ家を買ってあげ、途中で私の父がギャンブルにはまり、家を一軒売ってしまったので、私の母には家を二軒買ってくれました。祖母は最後までハンバで住み、贅沢は一切せず、いつもテレビの水戸黄門と暴れん坊将軍を楽しみにしていました。そんな祖母が生きているときに、経営とは一体何と聞いてみると、即答で、あのなあ、それはなあ、おカネを使わないことや、と、教えてくれました。しかし、しばらくしてから、しかしなあ、ここぞというチャンスが来たときには、おしみなく使えと教えていただきました。そんな時にたまたま、現在大手監査法人のシニアマネージャーの会計士の弟が実家に帰ってきていて、私に兄ちゃん、経営のことやったら何でも教えたるでと言ってきたので、私は一言、経営はおカネを使わないこと、と言うと、弟は何も話しませんでした。その時に祖母は本を読んだり、文章を記したりできませんでしたが、今までの経験からでたことを私に教えてくれ、それが大手監査法人の公認会計士の弟に一言もものを言わせないところが、すごいと思いましたし、尊敬の念をいまだに抱いています。そして、最後に祖母は、日常で大切な事として、胃袋、おふくろ、給料袋ということを教えてくれました。話が長くなったので父方の祖先の話や梅ちゃん(ボルドーマスティフ、メス5歳)、〔フランス原産〕の話は次回にさせていただきます。確かに祖先が偉かったからといって自分が偉いのかといわれれば、それはノーと答えるしかありません。自分自身は自分以下でも自分以上でもない存在です。自分を知りたければ、常に目の前に現れえる人々を見てみましょう。自分の前に常に現れえる人は自分自身の鏡です。つまり同じレベルの人々が常に自分の前に現れえるのです。しかし、このことも自分自身が本を沢山読みだしたり、勉強をすることによって、目の前に現れえる人々も変化していきます。私が三菱の子会社時節の地中線部部長のT・D氏によれば、親や祖先に賢い人がいなければ、賢い子は生まれえてこないと言っていました。しかし、日本の諺に、トンビが鷹を生むという言葉がありますが、このことも私の経験上確かなことです。たよりない両親から、しっかりとした頭の切れえるたくましい子供も生まれえてくるのです。長々と話してきましたが、もとの文章の題目に戻します。このチェスターフィールドの手紙では、自慢話についての批判が記されえていましたが、自慢は不安の裏返しなのです。自慢したがる人ほど心では不安をかかえています。そう考えれば、友達の自慢話の一つや二つは聞いてあげてもよいのではないのでしょうか。この世の人々の願いを叶える思いをはるかに超えるように闇に輝く光のように、わたしたちの命は日々とりとめのない神様の恵みによって支えられえている、いつわりのないとこしえに人から街へさらには夢から未知なる世界へそして果てしない宇宙へとつながる変わりゆく明るい未来への星の魔法のメッセージとなるのであります。」・・・・・次は、ノートの問いへと移動します。・・・・・→→→