オリエンタル写真工業幻の二眼レフカメラ② | 四畳半カメラ大系

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4.半年とやけに早い登場

 

 広告に見る国産カメラの歴史ではオリフレックスの初登場は昭和25年9月、1950年の登場である。同年はリコーフレックスⅢ型の登場とカメラ史で大きな出来事が発生している。

 

画像元:リコーイメージング社のHP

 

 戦後の二眼レフブームの火付けとなった理研光学工業(現リコー)の有名なカメラで、リコーは現在ペンタックス(リコーイメージング社)カメラを製造販売している、工房的ものづくり(笑)で奮闘中の企業である。

 

 リコーフレックスⅢ型は3月に登場、オリフレックスの登場はそれ以降となる。但し9月時点は価格未定、翌年昭和26年2月の広告で8950円の売価が確認できる。

 

 両者の登場時期が半年程しか離れていない点を踏まえるとオリエンタル写真工業が先の流行から急遽作った事が容易に想像できるが、写真機の製造が主でない企業が僅か半年程で二眼レフカメラを作るのは少し厳しいと感じる。

 

 初登場となった9月の宣伝は「かねてよりカメラの製造を研究中のオリエンタル写真工業株式会社では、このほど二眼レフオリフレックスを製造発売した。」と記載している。

 

5.製造計画の存在?

 

 オリフレックスを改めて見るとBRILLANT(ブリラント)に随所が酷似している。ブリラントは第三帝国のVoigtlander(フォクトレンダー)社から昭和7年(1932年)に発売された二眼レフカメラ(ボックスカメラ)で、ピントフードや吊革金具の特徴から実際に参考になった型は昭和12年(1937年)のブリラントV6だと考えられる。

 

 戦後のカメラなのに参考にしたカメラが少し古いと思われるがオリエントシャッターに注目すると、「T.B.1~1/200」。T付シャッターは戦前戦中に多い型である。

 

 オリフレックスは戦後のカメラでありながら戦前の特徴が色濃く出たカメラだ。これらを踏まえるとオリエンタル写真工業はリコーフレックスⅢ型が出る以前から二眼レフ製造計画が存在した可能性が考えられる。

 

戦後混乱期か、戦中期か、はたまた戦前か。

 

 何しろ同社の創立はかなり古く、大正8年(1919年)創立と日本初の総合写真感光材料メーカーである。HPの社史を見てみると大正から印画紙や乾板、ロールフィルムと幅広い感光材料を手掛けて発売、昭和4年(1929年)にはオリエンタル写真学校を開設し写真界で数多の人材を輩出している。

 

 しかしカメラについては一言も書かれていない。

 

6.話は戦前に遡る?

 

 広告に見る国産カメラの歴史では同社が戦前に発売したカメラで昭和14年(1939年)3月にベスト判鏡胴型カメラ「ピーコックⅠ」同年8月の「ピーコックⅡ」が確認できる。

レンズ銘:ORIOSCOP(オリオスコープ)50mmF6.3

シャッター銘:PEACOCK(ピーコック)

製造元はオリエンタル写真工業ではなく東洋光機と記載されている。

 

画像元:国産カメラ図鑑

 

 情報はこれだけでピーコックとオリフレックスの関係を示すものは見つからない。

 

 そこで創業から昭和25年までの社史をまとめたオリエンタル写真工業株式会社三十年史を確認するとピーコックは孔雀の意味であり、大正10年に開発された一般用印画紙の孔雀印が由来と見られる。残念乍らオリフレックスは掲載されていない。

 

 カメラのピーコックは記載されており昭和14年2月東洋光機製作所が創設、ピーコックを製作して市場に提供している。

 

 元々東洋光機製作所はオリエンタル写真工業の工作部カメラ部として写真器具の製造を本社の一部で行っていた部門で昭和14年12月に東洋光機製造株式会社として本社近く東京都淀橋区西落合531で一旦分離設立となっている。

 

 つまりピーコックⅡ型以降カメラ部門が会社として独立されている。

 

 東洋光機製作所並びに東洋光機製造株式会社はオリエンタル写真工業が抱えていたカメラ部門ということで両社は密接な関係があった事が伺える。

 

③に続く。