昨晩、カタリバノゼミ形式で、改めて「新しい公共」について考える会が催されました。

場所は、中野。何年かぶりにブロードウエイを通りました。昔と変わらぬ賑わいと、

えもいわれぬ、不思議空間的な感じは、やはり昭和人間の僕にはとても心地よく感じられました。


さて、本題。「新しい公共」について、まず、この会を通じてわかったことは、

「新しい公共」に定義はない、ということ。これは、いささか厄介。

寺脇さんは、自身の経験から「生涯学習」を例に、いかに「定義しないこと」が

大事かを説かれていました。

つまり、「おれのやっていることが「新しい公共」だ!」といえば、それでOK。

ということかもしれない。(すんごい、雑な言い方で申し訳ない)


ただ、続いて判明したことが、案外大事。

「新しい公共」は、主権者たる「国民」が、これまで「税」という対価を払って

官にアウトソーシングしていた「公共事業」を、もう一度、この手に取り戻す

ことだという点。

これは、前回のカタリバ大学でも、松井官房副長官なんかが言っていたのだけれど、

いまひとつピンとこなかった。

けれど、昨日の会合でもう少し丁寧に考えるとよくわかった。

つまり、「もう一度、取り戻す」は、官が規制や既得権を、「予算も付けて」放棄するということ

なのだ。


民主党の政策の大きな流れの中にこの「新しい公共」は、確実に納まっている。

それは、事業を仕分けて → 官の既得権放棄 → 新たらしい公共の担い手のための制度作り

という流れである。


とかくパフォーマンスだ、なんだと言われた「事業仕分け」だけれども、

それは、予算のムダばかりではなく、事業そのものの必要性、

つづいて担い手(事業主体)の妥当性(官がふさわしいかどうか)、

予算の妥当性etc・・・というグラデーションで仕分けされたわけですが、

「その担い手(事業主体)の妥当性」の部分が、

まさに「新しい公共」の生まれる領域になるのだということが、昨日のゼミで

よくわかった。(もちろん、その領域に限る話ではないのは当然だが・・・)


4月には、枝野新行政刷新大臣のもと新たな事業仕分けが始まるわけですが、

是非、「新しい公共」との観点から注目したいと思う。


で、今後の課題。

まず、以上の文脈から容易に想像されるキーワードは

「民でできることは民で」by小泉純一郎

寺脇さんいわく、根本思想と方向性が真逆なので、小泉的構造改革

とは、まったく違うということのよう。

しかし、それは、一般国民にはなかなかわかりづらいと思われます。

なにか、わかりやすく「違い」を説明するレトリックを誰か発明する

必要がある。


もう一点。

以前のブログでも指摘したが、やはり、地域コミュニティの問題。

「新しい公共」も、やはりリアルの場としてのコミュニティによって担保されるであろう

部分は少なからずある。とすれば、やはり「相互監視的」で「同調圧力的」な

コミュニケーションをどう扱うか、この問題は、きわめて実践的だと思うので、

発生してから個別に対処するしかないかもしれない。


以上、備忘も兼ねて


「SONG WRITERS」は、また今度

表題の通りなんですが、「新しい公共」という概念については

先日「カタリバ大学」で議論になったテーマです。

これを、山口なりに考えてみたいと思います。


鳩山政権の掲げる「居場所と出番」は、

「新しい公共」のキーコンセプトだと思います。

「居場所と出番」を担保するものは、宮台氏の指摘するところの

「承認」であって、その仕組みは「コミュニティ」が担ってきたものだと

考えられます。


人間が社会的動物である以上、他者との間の相互「承認」によって

自己を規定して日々の営みを行っているということは、

改めてどうのこうのいうことでもないと思います。

それが、アイデンティティとなっていることも少なくないでしょう。

そして、従来は、当人が好むと好まざるとに係わらず

「コミュニティ」が「承認」の仕組みを提供してきました。

だから、「帰属」がアイデンティティと深く係わるのだと思われます。


しかし、近代から現代にかけて、社会が工業化、分業化してゆくなかで

「コミュニティ」の形も変化してゆきました。、当該個人の利便性を個別に

提供するサービスが進歩してゆき、「コミュニティ」自体の崩壊

が進んできといえるでしょう。


なので、現代社会の抱える社会的問題の多くは、この「コミュニティ」の

崩壊に原因の一端があると考えられます。

逆に言えば、コミュニティの復権=「居場所と出番」提供がなされれば、

「自殺」や「貧困」や「高齢化」や「幼児虐待」

などといった問題はずいぶん良い方向へ誘導できるように思えます。


しかし、そこにはノスタルジーがないでしょうか?

それは、ご近所や親族、家族が助け合いながら、

地域社会を営んでゆく、自助、共助のイメージです。


僕が今回、鳩山政権の提唱する「新しい公共」について、ひとつ考えてみたいのは、

為政者の側から言う「新しい公共」というものは、何なのか?

という点です。


先日のカタリバでも社会企業家が「新しい公共」の大切な担い手になりうるの

ではないか?そうするためにはどのような政策が必要か?など、

活発に議論されました。前向きなとても良い議論だったと思います。


しかし、前述したように「新しい公共」というものが、「昔はよかった」

「ご近所の助け合いがあった」「大家族で老人の介護、子供の教育なんかもうまく行っていた」

といったノスタルジーに寄ってコミュニティ機能の代替を何に求めるのか?

という議論であれば、まして、それを為政者が提唱するのであれば

ちょっと考えてみることがあるように思うのです。


つまり、江戸時代の長屋(が実際どうだったかは、よくわかりませんが)や

戦後の「向こう三軒両隣」的なご近所コミュニティは、なぜ、生まれたのか?

それは、身分制度であったり、家制度、隣組制度であったりいわば、

為政者が民衆を支配するために用いた制度の副産物として、

生まれたのではないでしょうか?

つまり、抑圧的な制度を被抑圧者が有機的に機能させるための知恵が、

「コミュニティ」のプラスの部分を形成してきたのではないでしょうか?

コミュニティが機能している社会は、ホントは、村社会的で

すごく息の詰まる社会だったかもしれません。


そんな息苦しさから逃れることを今日までの近現代で私たちは

模索してきたのではないでしょうか?

それは、自由と民主主義への道でもあったと思います。


だから、今さら「新しい公共」などというのはお門違いで、前時代的

だなどというつもりは毛頭ありません。


私たちは、日々のイノベーションで通信や移動のいわゆるコミュニケーション

にかかわる進化を相当遂げていると思われます。

なので、本来、支配のための制度の副産物であったものを、

それのみ再生することはできなくはないと思うのです。


ただ、それは、かなり自覚的にやらないと、いけないと思うのです。

それは、この「新しい公共」という概念が、

コミュニティの担い手である市井の人々からではなく、

為政者の側から提唱されているという点においてなおさらです。

副産物を求めるあまり、それこそお門違いな支配制度が

顔を覗かせるようなことがあってはならないと思うのです。

なぜなら、それは「自由」の問題だからです。


なんで、「カタリバノ大学」のような取り組みが、各所で行われ

ることが、まずは大事だと思います。


なんだか、カタリバの宣伝みたいになってしまって、

カタリバのわからない人には、ちょっとわからないところも

あったかもしれませんね。失礼しました。


カタリバ大学 http://www.katariba.net/k-univ


「新しい公共」については、まだまだ考えていいきますが、
次回は、佐野元春さん司会のNHK「THE SONGWRIGTERS」という

番組の感想など書いてみたいと思います。

http://www.nhk.or.jp/songs/song-w/


お!予告?



トークライブの第5回が無事に終わりました。

お越し頂いたみなさんありがとうございました。

僕は前夜の収録から編集で徹夜だったもので

ちょっとへろへろでしたが、

飯田先生は、元気いっぱい、楽しいお話を頂きました。

今回は、ネットで生中継してみたりしたんだけど

誰か見てくれたのでしょうかね。

お越しになれなかった皆さんは

次回、3月19日で宗教学者の島田裕巳先生です。

つーことで、取り急ぎご報告までに・・・