<聖書通読箇所であれ?と思った聖書箇所>

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

 

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

 

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

 

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。

基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。

 

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

 

そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

 

ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

 

ルカの福音書14章25~35節

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

 

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

 

この二つの文章が軸ではないかと思ったが、その間の二つのたとえ話が、あまりピンとこない。イスラエルの文化的背景の理解が必要なのかも知れない。

 

「自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」は、あれ?と感じた。イエスは私たちにホームレスになれと勧める訳がない。ホームレスの人の伝道を聞き、そのようになりたいと思う人はいない。神の国と神の義を求める優先順位を間違わないように!!!との忠告であると思う。