「グラスに顔があったって、いいじゃないか」
の、ニッカウヰスキーのオマケのロックグラスの底には、
岡本太郎の「顔」が彫られていた。
ハイボールが流行っている昨今、80年代の顔グラスも
「再販しても、いいじゃないか」
いや
それをハイボールグラスにしちゃったら台無しだけどさ。
そのニッカ本社の赤レンガの建物をまがり、骨董通りに入る。
ふと喫茶の看板が見える。南国の植物園かと思われる庭先。
南青山という立地のせいか、少し落ち着いた雰囲気の佇まいだ。
そこに、かつては太郎の住居とアトリエだった、岡本太郎記念館がある。
「太陽の塔の中に入りたい」
そんな思いも、かなわぬまま。
「たとえヴァーチャル(模型)でも」と
太陽の塔の内部を、体験するために、
是非にでも観にきた。
生誕100年の企画で、太陽の塔の中に飾られていた
「生命の樹」を模型化したものが記念館に展示されているらしいのだ。
何年か前、ここへ「明日の神話」の原画を観にきたことがある。
とても小さな美術館だが、
なんせ、いまだ太郎の匂いただよう、住居跡だ。
急な階段を企画展示のある
二階に上がると
うねる影が、ゆっくり回りながら、踊っている。
「生命の樹」は
奇妙なクリスマスツリーだった。
しゃがんで下から見上げてみる。
万博の観覧者もきっと、このピンクで透明な生物から、太陽の胎内を体験したのだ。
派手な緑や赤や黄色の原色の木の枝には、さまざまな動物や恐竜がくっいていている。
ただし植物はない、これは生物の歴史なのだ。
ぶら下がっているクラゲみたいな生物の樹を追うと幹にアンモナイトが整列して、古代魚になる。そして恐竜の時代があってマンモス、最後は木の上には猿人だ。そしてグニャリと頂上には一本の現在に続いている。
300体もある恐竜やマンモスやいろいろな生命。
当時の万博オリジナル造形はウルトラマンの円谷プロが制作した。
太陽の塔の赤のラインがウルトラマンとそっくりというのも、この辺が出処だろう。
このレプリカは、なにかオマケおもちゃのツリーみたいだ。
そのはずだ、この現在の模型をつくったのは「海洋堂」
懐かしのヒーローやオマケ玩具など、その細かな技巧力とリアルな造形力は、玩具フィギュアをブランドにまで押し上げた。
それにしても、「実物」は円谷プロで、「レプリカ」が海洋堂という組み合わせは相性がいい(笑)
ウルトラマンとフィギュア屋の絶妙のコラボだ。
実際は50㍍あった、
バカでかい生物の派生図。
途中に死滅した種もある。
ブラ下がる骸骨の
残酷と滑稽。
当時、このツリーの中で稼働していた
生命の乗り物は、地下の胎内のレールを巡回し、
そして塔の内側を自動エスカレーターで登っていきながら
進化を
体験していったのだ。
このレプリカを再現した職人の、興奮も伝わってきた。
太陽の塔の胎内には、多種多様な、生物の起源が詰まっていた。
覗きながら
太陽の塔の中身を感じていた。
そして
ツリーの頂点には猿人がいる
これは起源をさかのぼり
今に続く人類の歴史を、
いや、微生物から始まった
僕らの遺伝子の記憶を
たどったものかもしれない。
「ナンダコレハ!」
という太郎の殴り描きのデッサンを見たのは、となり展示室だ。
太陽の塔の胎内のような真っ赤な壁面に
大まかで奔放な
デッサンがいくつも貼られていた。
生まれる前の太陽の塔だ。
これは顔のエンブレムの素描の一枚であろう。
この「×(バツ)顔」は太郎の仮面(マスク)に登場する。目だと思われるような丸が5つ。帯状の髭や眉毛にも見えるのは、お馴染みのフラッグ(旗)のモチーフだ。輪郭は、画かれていない。なぜなら「すでに在る」ものだからだ。
鉛筆の素描が、ここまで激しいとは思わなかった。
もちろん絵画の色たるや凄いのだが。
迷いのない肉筆が
鉛芯を折らんばかりに力強く、雷のようにうねり、斬り口を袈裟懸(けさが)けにしながら四方ナナメに轢(ひ)き裂く。
飛び散る目、弾ける部位。
描かれていない白紙の奥にあるであろう円を、または丸を、そして輪郭を…
そうして引き裂かれた、顔。
描き殴って、興奮ぎみにそえた
「ナンダコレハ」の文字。
芸術は美しくあってはならない。
太郎の言葉だ。
なぜだろう、使われなかった、この一枚の前で僕は
「ミエタノダ」
思い出したのだ。
ずっと謎だった「赤と白」のコトを。
僕には、あの太陽の塔の 「赤と白」が
「日の丸」にしかみえなかった。
そんなわけが、ない。
なぜなら岡本太郎とナショナリズム(国家主義)ほど
かけ離れたものはないのだから。
「赤と白」は、
僕にとって、まさに謎だった。
太陽の塔の姿。
岡本太郎の言葉。
自由なフォルムの追求
円、輪郭、顔、目、
丸、まる、赤い丸。国旗(フラッグ)
飛び散る赤。宇宙。白い爆発。
その中心から覗く、
引き裂かれた苦悶の顔(マスク)
赤と白は、傷口だ。
ただの、血ではない。
解釈なんかどうでもいいのだ。
心から胎内から思わず湧き立ち
肉踊り、いてもたってもいられず
放出されたものだけが感動だ。
芸術は、爆発だ。かつて岡本太郎は言った。
爆発したのは、芸術ではない。
自身の感動なのだ。
いや、感動だけじゃ足りない。
「歓喜」だ。
今ここで「歓喜」していることが生きていることなのだ。
芸術はそれを、呼び覚ます。
宇宙的な、白い爆発で。
赤と白の謎
その解。
これは
…日本の国旗を「引き裂いた赤」だ。
こともあろうに世界へと「日本」の威信をかけた国家的事業の
「日の丸」を破る!?
大阪万博テーマ「人類の進歩と調和」に否を、突きつけた男だ。
「人類は、調和も、進歩もしていない」
しかも戦後日本の経済成長を世界に見せつけたい時代
なんとナショナリズム(国家主義)にも「否」を、突きつけていたのだ。
全人類的で土着人間的な太郎なら、
ありうるのではないだろうか。
なんとも凄まじいではないか。
こんなこと、当時はヤバくていえない。
なんせ「日本国旗」にも、否だ。
もし現在のオリンピックでも、そんなことをしたら、
…考えるまでもないだろう。
国民全員、国をあげて成長しようって当時なら、
それは相当ヤバい。
(なぜ、太郎はそんなことを表現したのか)
しかして、観てみよう
引き裂いた日の丸から飛び出したのは、白く丸い睨んだ顔。
「べらぼうな顔」だ。
そのだんごっ鼻は西洋人ではなく、まさに土着的日本人の不細工な顔だ。
これは、日本人のツラだと、太郎は言う。
「現在の顔」と呼ばれている。
「ヒイズルクニ(日の本)」と呼ばれた島の歴史だ。
だんごっ鼻の「現在の顔」が
太郎が好きな僕らの起源である「縄文からの顔つき」ならば
その背中に
確固として入れ墨のように背負っているのは
「ヒイズルクニ」と呼ばれる以前の歴史ではないであろうか
稲作文化の始まる前の、狩りで生活していた命懸けと祝祭の時代。
そう
天皇制が始まる前から続いている「小さな島国」の歴史だ。
僕には黒い日の丸に見えて、ゾッとしてきた。
「過去の顔」と呼ばれる意味が、わかったような気がする。
日の丸の国旗さえもビリビリと破き、
飛び出して、苦悶する顔は
ナショナリズムや国家なんてちっぽけなものを超えた
「全人類的、存在」だ。
赤と白は、傷口だ。
しかも
ただの、血ではない
「太陽の塔」は
この山と川と海と四季に囲まれた「小さな島国」に
産まれ育ち死に連なってきた生命としての
「全人類的、人間の象徴」だ。
あの「生命の樹」は、体験だ。
電動遊具の生命の乗り物は、僕らの遺伝子だ。
微生物だった生命もやがて二本足で立ちあがる
(人類の誕生だ)
その二本の足で最新鋭のエスカレーターに乗り
自らの胎内に脈打つ生き物の進化を巡回しながら
「自らに眠る遺伝子の記憶を呼び起こし」
その経験の歴史をくぐり抜け、、地上にまぶしいく出た一人一人が、「新しい人類」として産まれ出るようなイニシェーション(儀式)をつくりたかったのだ。
赤と白は、誕生だ。
この島の(あえて日本とは呼ばない)
それも、
世界中が注目する万博という祝祭の場で。
頂上の「未来の顔」は
生物の歴史を体験し
胎内から
あらためて生まれ出でた一人一人の人々に、
黄金の冠さずけるようだ。
それこそ、
全人類的、新しい人間の姿だ。
未来の顔は
歓喜の両腕をひろげている。
デッサンの部屋を出た。
ふと、眺めた
生命の樹の向かいを、
太陽の塔のレプリカが、僕に
黒い顔の背中を向けていた
迎えるように両手を広げた白の母胎。
てっぺんにある未来のアンテナが
まるで黄金の鶴の冠をいだいたように、堂々としていた。
挑むようなつもりで
等身大の正面に立つ。
引き裂かれた赤と白。
べらぼうな顔が
キッと睨み返す。
対極する
自身の影と重なる。
それは
今の自分の顔だ。
最後までありがとうございました。
コメントも、たくさん…感謝です。涼
(追記2014.5.11)
検索から、この昔の記事へたどり着いていただいて
しかも、いつの間にやらFacebookの「イイネ」まで
頂いて、ありがとうございます。
今、読む過去のコメントも、
感慨深いものがありました
息の長い文章を書くのは、
僕のひとつの夢ですから。
感謝。 涼
「生命の樹(模型)展示」
岡本太郎記念館(~2011 6/26まで)
(館内での写真撮影は、自由です。)
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