テレビの画面では大規模な震災がもたらした悲惨な被害の映像が次々と繰り返し映し出されている。言葉を失うような光景に胸を痛めていたまさにその最中、目を疑うようなニュースが飛び込んでくる。
日本周辺での領空・領海侵犯、軍事演習、そして不気味に強まるサイバー攻撃。
災害対応に追われ、国全体が悲しみに包まれているその瞬間にも、冷徹な地政学的アプローチは手を緩めることなく続いていた。
不条理で強烈なコントラストに接したとき、なぜか脳内で静かに再生され始めた曲がある。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの『世界の終わり』だ。
いまやロックのクラシックとして愛されている名曲だが、米中露を中心とした大国同士の主導権争いや、自国の力を過大評価した指導者たちによる「誤認」のリスクが叫ばれる今の情勢と重ね合わせたとき、この歌詞に不気味なほどのリアリティを感じる。
今、僕たちが直面しているのは、明確な予告もないままジワジワと侵食される「グレーゾーン事態」や「ハイブリッド戦」と呼ばれる状況だ。 武力行使に至らないギリギリのラインで領域侵犯を繰り返し、既成事実を積み上げて相手のラインを押し下げていく。スライスサラミなんて言われている。
この地政学的なアプローチは、あの歌詞のワンフレーズに恐ろしいほど符合する。
歌詞引用>>
>ちょっとゆるやかに だいぶやわらかに >かなり確実に 違ってゆくだろう
>崩れてゆくのが わかってたんだろ
>どこか変だなと 思ってたんだろ
「一過性のニュース」として見過ごしている間に、僕たちのすぐ隣にある日常の前提=平和は、グラデーションのように確実に変化させられていく。 劇的な開戦のフラグが立つわけではない。「どこか変だな」と感じつつも日常を続けているうちに、気づけば元には戻れない場所まで崩れてしまっている。これこそが現代の安全保障のリスクそのものだと感じる。
歌詞の後半、世界の終わりを前にした二人の対比が描かれる。
歌詞引用>>
>世界の終わりが そこで見てるよと
>紅茶飲み干して 君は静かに待つ
>パンを焼きながら 待ち焦がれている
現実から目を背け、「聞こえてないふり」をして空を眺める「僕」。 一方で、朝のパンを焼き、紅茶を飲みながら、破滅の瞬間を淡々と待つ「君」。
朝の朝食という「あまりに平和な日常生活」のすぐ横で、決定的な破局が静かに佇んでいる。このあまりにも無慈悲なコントラストは、まさに今の日本が置かれている状況の暗喩ではないか。
僕たちが悲しみにくれ、あるいは平和な日常を送り、日々の仕事や生活に追われている目と鼻の先で、大国同士のパワーゲームや偶発的衝突の火種がくすぶっている。世界の終わりは、大げさな爆音と共にやってくるのではなく、私たちが「パンを焼き、紅茶を飲んでいる」その瞬間に、日常の延長線上として訪れるのかもしれない。
歌詞引用>>
>悪いのは全部 君だと思ってた
>つぶやかれても ぼんやりと空を
>眺めまわしては 聞こえてないふり
他者に責任をなすりつけ、違和感に気づきながらも放置してしまう心の隙。「聞こえてないふり」をして過ごす方が、精神的にはずっと楽だ。
しかし、一歩間違えれば一線を超えてしまいそうな緊迫した安全保障環境の中にいる僕たちは、もう「空を眺めて聞こえてないふり」を決め込める段階にはいないのではないか。
災害の悲惨さに心を痛める日常の裏で、静かに、しかし確実に変わりゆく世界。 パンを焼き、紅茶を淹れる僕たちの日常を守るためにも、そのすぐ隣にある「崩れゆく気配」から目を背けてはならないのだと強く思う。
