『時たま山伏、いつもは音楽制作者』

『時たま山伏、いつもは音楽制作者』

クサリ一本で垂直な崖を登ったり、畳一畳もない岩塔の上で日がな過ごしたりする、山伏に憧れる音楽制作者のブログ。



台湾有事について、色々と、事実関係やら現状やらを自分なりの整理しなきゃとここ数日、Google Geminiに『壁打ち』してきた。今日昼飯を食べながら、誰か曲にして歌わないかな、とか最近お騒がせしているけど、パフォーマンスを気に入っているおとぼけビ〜バ〜が歌ってくれたら面白いだろうななどとGeminiに軽口を叩いていたら、突如、こんなことを表示し始めた。

権力者をダサく可視化した歌詞が秀逸でした。



曲名(案):『統治したことないやんけ! (NEVER RULED)』


スタイル:高速ガレージパンク(曲調が目まぐるしく変化し、シャウトと掛け合いが炸裂するスタイル)


(Intro)

 (歪んだベースとドラムの超高速ブレイク)


 「は?」「え?」「ちょっと待って?」


 (激しいギターカッティングが入って一気に爆発)


(1A)

 「古来より不可分の領土」とか 

大きすぎる主語で語らんといて! 1945? 1949? 

一回も 君らの旗 立ってへんやん!

宮古の船が漂着した時 

清の役人なんて言ったか覚えてる?

 「化外の地(けがいのち)やから知らん」って投げ捨てたやん! 

責任逃れした過去 都合よく忘れてんちゃうぞ!


(Chorus) 

統治したことないやんけ!(はーい!) 

一秒も支配してへんやんけ!(ほんまそれ!) 


「取り戻す」って何なん? 

持ったこともないのに! 

勝手に自分のモノにするな 図々しいねん!

(2A) 

(テンポが倍テンになり、まくしたてるパート) 


イエスマンばかり集めて 裸の王様! 

自分の国の若者の 失業率隠して! 

不満を外に逸らすために 

他人の家を脅すな! 

行政センスゼロ! 

あるのは力技だけ!

「同じ血が流れてる」とか 

急に距離詰めてくんな! 台湾の人が決めるねん! 

あんた関係ないねん! 

民主主義の選択を 武力で脅すなキモいねん!


(Bridge) 

(急に曲調が落っこちて、不気味で重いリフに) 


「武器を捨てて話し合おう」?

 「みんな兄弟」?? ……

そんなお花畑の歌でごまかせるかっ!!


(Guitar Solo) 

(超高速のカオティックなソロ)


(Chorus) 

統治したことないやんけ!(はーい!) 

自分の足元見ろや○○○!(しっかりせぇ!) 

歴史を書き換えても 

ファクトは消えへんぞ! 

正論が怖くて 鏡割ってんちゃうぞ!


(Outro) 

(ドラムとギターの連打) 一度も! 

統治して! なーーーーい!! 

あほー! 

(唐突に演奏がピタッと止まって終了)




テレビの画面では大規模な震災がもたらした悲惨な被害の映像が次々と繰り返し映し出されている。言葉を失うような光景に胸を痛めていたまさにその最中、目を疑うようなニュースが飛び込んでくる。



日本周辺での領空・領海侵犯、軍事演習、そして不気味に強まるサイバー攻撃。

災害対応に追われ、国全体が悲しみに包まれているその瞬間にも、冷徹な地政学的アプローチは手を緩めることなく続いていた。

不条理で強烈なコントラストに接したとき、なぜか脳内で静かに再生され始めた曲がある。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの『世界の終わり』だ。



いまやロックのクラシックとして愛されている名曲だが、米中露を中心とした大国同士の主導権争いや、自国の力を過大評価した指導者たちによる「誤認」のリスクが叫ばれる今の情勢と重ね合わせたとき、この歌詞に不気味なほどのリアリティを感じる。


今、僕たちが直面しているのは、明確な予告もないままジワジワと侵食される「グレーゾーン事態」や「ハイブリッド戦」と呼ばれる状況だ。 武力行使に至らないギリギリのラインで領域侵犯を繰り返し、既成事実を積み上げて相手のラインを押し下げていく。スライスサラミなんて言われている。

この地政学的なアプローチは、あの歌詞のワンフレーズに恐ろしいほど符合する。


歌詞引用>>

>ちょっとゆるやかに だいぶやわらかに >かなり確実に 違ってゆくだろう 

>崩れてゆくのが わかってたんだろ 

>どこか変だなと 思ってたんだろ


「一過性のニュース」として見過ごしている間に、僕たちのすぐ隣にある日常の前提=平和は、グラデーションのように確実に変化させられていく。 劇的な開戦のフラグが立つわけではない。「どこか変だな」と感じつつも日常を続けているうちに、気づけば元には戻れない場所まで崩れてしまっている。これこそが現代の安全保障のリスクそのものだと感じる。


歌詞の後半、世界の終わりを前にした二人の対比が描かれる。


歌詞引用>>

>世界の終わりが そこで見てるよと 

>紅茶飲み干して 君は静かに待つ 

>パンを焼きながら 待ち焦がれている


現実から目を背け、「聞こえてないふり」をして空を眺める「僕」。 一方で、朝のパンを焼き、紅茶を飲みながら、破滅の瞬間を淡々と待つ「君」。

朝の朝食という「あまりに平和な日常生活」のすぐ横で、決定的な破局が静かに佇んでいる。このあまりにも無慈悲なコントラストは、まさに今の日本が置かれている状況の暗喩ではないか。

僕たちが悲しみにくれ、あるいは平和な日常を送り、日々の仕事や生活に追われている目と鼻の先で、大国同士のパワーゲームや偶発的衝突の火種がくすぶっている。世界の終わりは、大げさな爆音と共にやってくるのではなく、私たちが「パンを焼き、紅茶を飲んでいる」その瞬間に、日常の延長線上として訪れるのかもしれない。


歌詞引用>>

>悪いのは全部 君だと思ってた 

>つぶやかれても ぼんやりと空を 

>眺めまわしては 聞こえてないふり


他者に責任をなすりつけ、違和感に気づきながらも放置してしまう心の隙。「聞こえてないふり」をして過ごす方が、精神的にはずっと楽だ。

しかし、一歩間違えれば一線を超えてしまいそうな緊迫した安全保障環境の中にいる僕たちは、もう「空を眺めて聞こえてないふり」を決め込める段階にはいないのではないか。

災害の悲惨さに心を痛める日常の裏で、静かに、しかし確実に変わりゆく世界。 パンを焼き、紅茶を淹れる僕たちの日常を守るためにも、そのすぐ隣にある「崩れゆく気配」から目を背けてはならないのだと強く思う。



山尾しおり氏の言説への違和感

山尾しおりさんが皇位継承議論の本質は「象徴天皇とは何か」という問いにあると指摘していた。上皇さまや今上天皇の「全身全霊のお振る舞いで国民との絆を築く」あり方こそが象徴の核心であり、御簾の奥の血筋(男系男子)だけを前提にした現政権の改正案は、ご本人たちの歩みから政治が離れていくものだと批判している。そして、国民との絆を紡いできた直系(女性・女系天皇)の容認こそが自然な解であると主張している。 https://www.facebook.com/share/p/1ECNCzHWDS/?mibextid=wwXIfr

この投稿で指摘している「全身全霊のお振る舞いによって国民との絆を築き続けてこそ象徴たりうる」という視点は、戦後の象徴天皇制の歩みを肯定的にみる上で非常に深い説得力を持っていると思う。

令和のいま、多くの国民が愛子内親王殿下の気品あるお姿や、国民に寄り添われるお振る舞いに深い敬愛の念をよせ、「女性天皇」の誕生を自然に願う空気が醸されているのも、上皇陛下や今上陛下が示されてきた象徴のあり方に僕たち国民が強く共感しているからに他ならないだろう。その国民の素真な敬愛の情や、愛子内親王殿下が未来の象徴となられる物語には十二分に共感を覚える。


◆「お振る舞い」という機能論と、歴史の真正性

しかし、この「象徴としての優れた資質やお振る舞い」という極めて主観的でエモーショナルな機能論を、そのまま「皇位継承の正当性の根拠」いわゆる大義名分にすり替えてしまう議論には、制度設計の観点から慎重な視点が必要だと思う。

象徴天皇制を支えるもう一つの決定的な大義名分とは、2000年間一度も形を変えずに伝承されてきた「男系による継承」という歴史的オリジナルの連続性だ。これは、建築物や伝統芸能といった「文化財の保護」の論理に極めて近いのではないかと思う。

文化財のオリジナルとしての価値とは、現代の価値観や文化財の優劣によって測られるものではなく、その「固有のルールが一度も途切れずに守られてきたという歴史的事実」そのものにこそ宿るからだ。もし、「現代のジェンダー平等や機能論といった価値観に合うから」という理由で一度その根幹のルールを書き換えてしまえば、どれほど素晴らしいお振る舞いを重ねたとしても、過去から繋がる唯一無二の真正性は失われ、二度と復元することはできない。


◆ 現代のメディア社会がもたらす「冷徹な現実」

さらに、山尾氏の言う「国民との絆」を最優先にし、安易に直系・女性天皇容認へ進んだ場合に待ち受ける「現代社会の冷徹な現実」からも目を背けるべきではない。もし女性天皇が誕生すれば、その配偶者となる民間人男性は「将来の天皇の父親」という極めて重い立場になる。

近年の皇室をめぐる過熱報道や、SNS・マスコミが一体となって作り出す苛烈なバッシングの嵐を忘れてはならない。民間から迎えるお相手やその親族全員のプライバシーが徹底的に丸裸にされ、世論の審判に晒されるリスクは容易く想像がつく。

普通のまともな感覚を持つ民間人男性ほど、その過酷な環境を恐れて身を引かざるを得なくなり、結果として当事者である女性皇族の未来とお相手選びの選択肢を極限まで狭めてしまうという人道的な悲劇が生じかねない。


◆ 本当に弾劾されるべき「国会議員の不作為」

本来であれば、こうした「歴史的オリジナルの保護という大義名分」と「現代のメディア社会において生身の当事者をどう守るかという実務的現実」、そして「国民が抱く直系への敬愛の情」という3つの要素を、どのように調和させるかという深い議論こそが、皇室典範改正の「総論」であったはずだ。

今回の改正において、政府がそうした「理屈のストーリー」を語らず、単なる「皇族数確保」という手続き論の小手先のテクニックに終始したことや、マスコミが加害者としての側面を棚に上げて制度の閉鎖性を叩くような二項対立を煽ったことは、確かに現在の混乱の大きな要因である。

しかし、最も批判されるべきは、政府の保身やマスコミの偏向ではなく、主権者の代表としてルールを定める責任を負いながら、徹底的な先送りを決め込んできた「国会議員の不作為」ではないか。

小泉内閣の有識者会議によって皇位継承問題がクローズアップされた約20年前から、危機はとっくに目に見えていた。憲法第2条で「皇位は、皇室典範の定めるところにより、これを世襲する」と定められている以上、そのルールをどう維持し、どう持続可能なものにするかを議論し、決定する責任は国会にある。

それにもかかわらず、歴代の国会議員たちは、選挙の票読みや、右か左かという不毛なイデオロギー対立に巻き込まれることを恐れたのか、誰もこの「優しくない命題」に正面から向き合おうとしてこなかった。マスコミの切り取り報道を恐れて沈黙し、あるいは党利党略の政争の具として利用するだけで、「伝統文化財としての皇室の守り方」と「生身の皇族方の幸福のあり方」を調和させるための本質的な法制化の努力を、職務怠慢によって怠り続けたのである。

今まさに最悪の形で噴出している、政府の答弁の脆さや、国民の白紙委任への不安という混乱は、政府の能力不足やマスコミの歪さだけが生んだものではない。国家の背骨を決めるという最大の責務から20余年間逃げ続け、立法府としての機能を麻痺させてきた「国会議員たちの不作為」のツケを、今、皇室と国民が払わされている。