交通事故や法律の話題からは外れますが,先日,センター試験の「ムーミン」と「ビッケ」の出題が,正確な知識に基づくとは言い難いと書きましたことから,ふと「知性とは何だろうか?」「果たして今のわれわれに十分な知性があるといえるだろうか?」と考えたのです。

原典に少し当たれば,あるいはその方面の専門家に確認すれば容易にわかる程度の知識なのに,そこを誤り,あのような出題をして,しかも自らが用意した正解を押し通したと言われても仕方のない入試センターの態度に,(本来高度なものを有すべき)知性があるだろうかとさえ思ってしまうのです。

 

「知性」とは,例えば大辞林の定義では「物事を考え,理解し,判断する能力。人間の知的能力。感覚によって得られた素材を整理・統一して,新しい認識を形成する精神のはたらき。」とされています。②の方がより高度なものであるといえましょうか。

私も偉そうなことは全くいえませんが,「知性」(特に②の意味で)を備えた人間たるには,少なくとも,㋐先人が積み上げてきた業績への敬意,㋑自分と異なる立場に対する理解・配慮が必要であると思います。また,㋒高度で奥深い知識の本質を易しく説明する能力も重要なファクターではないかと思います。

そのような観点から,私が高い知性を感じる書物はいくつかあるのですが,その点についてはまた機会があれば書かせていただきたいと思います(最近話題の『君たちはどう生きるか』も,そのような意味で私が高い知性を感じる書物の一つです。)。

このように考えますと,先日の大学入試センターの態度につきましては,遺憾の意を表せざるを得ません。文学者への敬意があれば,「ムーミン」,「ビッケ」の「舞台」を「フィンランド」,「ノルウェー」と決めつけて,それを唯一の正解と押し通すことができるのでしょうか?

 

 

 

前回、今年のセンター試験の出題に関して私なりの意見を書かせていただきましたが、あの設問は例えば、「ノルウェー、フィンランドに関係の深い作品はどれか」というような表現であれば、適切とも評価できるものだったと思います。
それが、作品の舞台がどこかという、限定的・断定的な表現であったため、不正確の誹りを免れないものになったわけです。

これと同様な悪問、出題ミスとまではいえないにしても、極めて不適切な出題は、司法試験の短答式(マークシート)でも何例かあります。
各予備校が出している過去問解説でも、疑問を呈するコメントが幾つかの問題に付されていたのを覚えていますし、私じしん、何が正解とされるのか、ハラハラしながら発表を待ったことがあります。
受験者にとっては将来がかかっていること、緊張とかなりの時間制限の中での解答が要求されることを、出題者の先生方にはお考えいただきたいと思います。

最近、大学入試などで出題ミスが相次ぎますが、1月のセンター試験でも地理Bで「ムーミン」の舞台がフィンランドかどうかが話題になり、出題ミスではないかと問題になった出題がありました。

些か旧聞に属することですが、ふと思い出して少し調べて(?)みましたので、私なりの考えを書かせていただきたいと思います。

 

私としては、あの問題は、正確な知識・情報に基づくものとはいえず、大学入試センターという公的な機関による、全国統一試験の出題としては極めて遺憾であると思います。

「ムーミン」と「ちいさなバイキングビッケ」につき、フィンランドとノルウェーのどちらを舞台にしたものか選択させる問題ですが、現実として「ムーミン」の舞台がフィンランドとは明記されておらず、「ビッケ」に至っては原作中にスウェーデンが舞台であることを暗示させるような記述さえあるということです。

したがって、厳密に考えれば「正解なし」ということになってしまいます。

 

ところが入試センターは、「厳密な意味で正確なものではない」と認めつつ、「知識・思考力を問う設問として支障はなかった」として、出題ミスではないとしています。さらに、試験・研究統括官は「設問の趣旨を受験生に分かりやすく示すため、単純化した記述としたものであることをご理解いただきたい」とコメントされています。

確かに、ノルウェーとフィンランドのどちらがヴァイキングと縁が深いかを考えれば、「ビッケ」がノルウェーを舞台にしたものだろうと推測はつきますし、実際の出題でも「ムーミン」の図には平地と森林が描かれていますから、フィヨルドや山地の多いノルウェーよりはフィンランドの方が近いだろうと推測はできます。

しかし、大学は最高学府です。その最高学府に入るための知性の有無・程度を判定するはずの試験で、そのような不正確な知識に基づく推測(出題者の意図の忖度?)を求めるような出題は如何なものかと思うのです。

「ビッケ」に至っては、試験委員の先生方が、「ヴァイキング。ああ、ノルウェーだね。」と原典に当たることもなくスルーしてしまったのを糊塗・隠蔽しているのかと勘ぐってしまう人さえいるかもしれません(そのようなことはなかったものと、私は信じていますが)。

大学入試制度も変わるところです。次代を担う若い世代に、「知識の正確さは二の次、三の次。上の人の意図を忖度することが一番大事」などという間違った認識が広まらなければよいのですが…

 

 

わが国の印紙代がいささか高すぎるのでは、ということを先日書きましたが、このような問題の解決を考えるに当たっては、何といっても、本当に困っている人たちの実際的な状況を忘れてはいけないと思います。
今日、明日の糧さえ危うい現状の人たちにとっては、何万円(ましてや何十万円、何百万円…)というお金は到底すぐには出せないものであり、それゆえ自分の権利主張・救済を諦める(=無理が通り、道理が引っ込む!)ことにつながりかねない問題なのです。

人権、法律を空念仏に終わらせず、わが国が輝かしい歴史を刻してゆくためには、どうすべきかを真剣に考える必要がありましょう。
その点からは、提訴の印紙代も重大問題の一つです。
わが国では、訴訟を起こすに当たって、訴状に収入印紙を貼らなければならず、その印紙代がまた結構高額です。
訴額に応じて印紙代も上がっていくのですが、訴額1000万円なら印紙代は5万円、2000万円なら8万円、1億円なら32万円、そして10億円なら302万円にもなります。
この印紙代はさらに、控訴の際にはその1.5倍、上告では2倍になります。高額の訴訟を提起するのに、如何に多額の費用が必要かがお分かりいただけるでしょう。

このような印紙代により、濫訴が防止されるというメリットがあると言われますが、その反面、本当に自分の権利が侵害されたと考える人、社会正義の観点から裁判所に判断を求めたいと考える人たちをして二の足を踏ませているのも現実ではないかと思います。

米国ではこのような印紙代の制度がないようで、提訴には、その訴額にかかわらず、一定の手数料(日本円にして2,3万円でしょうか)がかかるのみということだそうです。
まったく米国流にする必要はありませんが、わが国も印紙代をもう少しどうにか廉価にする方法はないものでしょうか。