『成熟と喪失 “母”の崩壊』(江藤淳著)からのメモ | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。だから実は母と息子の肉感的な結びつきに頼っているものに「成熟」がないように、母に拒まれた心の傷を「母なし子牛」に託して歌う孤独なカウボーイにも「成熟」はない。拒否された傷に託して抒情する者には「成熟」などはない。抒情は純潔を守りたい気持ちから、死ぬために大草原を行く「母なし子牛」の群れにその子牛のやさしい瞳とやわらかな毛並みに自分の投影を診ようとするナルシズムが生まれるからである。32p
 


さらにわれわれはどこかに「ウソ」を感じながら新しい異邦人である「父」の強制する世界をうけいれ、どこかにかすかな痛みを覚えながら「母」を、つまりわれわれが慣れ親しんできた生活の価値を否定した。われわれがこのような「裏切り」をおかしていることはどんな心理操作によっても消えはしない。176p




「父」に権威を付与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているのかもしれない。彼はいつも自分ひとりは立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯え続けなければならないのかもしれない。だが、近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきりと見定めることができ、「個人」であることを余儀なくされている自分の状態を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかも知れない。250p