私の解釈が間違っていなければ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における有名な章「大審問官」の要約はおおよそ上の通りだ。
快適さが阻止され善の意志が溢出するという心的過程は、崇高と呼ばれるものである。
例えば、自分が死ぬにも拘らず、線路に落ちた子供を救ったといった自己犠牲は崇高の極みである。
それが善の最たるものであるという。
西欧-キリスト教圏において標榜されるのが、そうした崇高な道徳観である。
しかし、何故快の享受が否定されなければならぬのか。
善を実践してみせた人間が立派な人間として敬われるといった恩恵にあやかれないのであれば、善行を働く人間は少なくなってしまうだろう。
恩恵を受けることを密かに期待し、善き人であろうという人間は偽善者として断罪されるべきだろうか。
人間が悪魔の側についているのではなく、むしろ西欧-キリスト教的な道徳観に欠陥があるのではないか。
例えば、利己的な欲求を善によって正当化せしめたものであるにせよ、それが利他的なものにまで及ぶのであれば善しするといった、崇高ではなく、大らかな道徳観の方が共同体の維持に適っており、更には人間の幸福に寄与するのではないか。
しかし、密かに利己心を忍ばせて善人あろうとする人間というものを考え、それを美醜の感情にかざすのならば、おおよその人間にとっては美的には思えないというところだ。
善悪の分別には美醜の感情が伴う、善は美であり悪は醜。
しかし、善悪の分別が経験的なものであり、社会的慣習の学習によって培われるものであるならば、美醜の分別もそれに従属し培われるものだという思弁もできるのだ。
利己心を忍ばせた善人、言わば仮面の善に醜さを感じることがあるならば、それは西欧的-キリスト教的価値観を無為に学習したからではないだろうか。
西欧近代が機能不全を起こしているといった言葉は、文化に真摯に向かい合っている人間ならば、大仰な口振りでもなく、それとなく語るところのものであるが、西欧的な倫理とそれに伴う美醜といったものは、払拭されてもよいものに思えてならない。
「情けは人のためならず」という謂があるが、仏教においてはその達観からはじまっているという。
また、古来からある日本的な美質ーー谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』や川端康成の人の情を寄せ付けないほど静寂な文学空間、建築家・磯崎新の闇の一元論・桜の花びらが刹那的に散るといった美質、九鬼周造の『いきの構造』・・・・(概ねそれらは仏教の影響を多分に受けたもの)
それらの美質がそれとなく物語るところの善というものを考えるのであれば、それらは西欧的価値観には決して納まらぬ、それどころか、西欧が悪として断罪してきたものだろう。
つまり、現代の日本は、実相が仮象を密かに裏切っているという事態を孕んでいるのだ。
日本人はその状況に気付くべきだ。
東洋において一早く近代化された日本において、その仮象が破られ実相が溢出するという日がこれから来ると思っている。