私のことをデカイオンナと一番言うのは兄である。
兄もでかい。縦にも横にも。
その兄が、でかいなぁとよく言ってくる。
私は己のことを生まれて此の方背が高くて嫌だなと思ったことは一度もない。
それをふと、この前気付いたのだ。
つまり自己肯定感が高いのだ。
それはひとえに周りの人のおかげである。
確かに小学生の頃は男子にデカイと言われてた。
それで傷つくことはなかったけども、、、
私はずっと自分のことをデカイと思って
生きてきてないのだ。
そして周りのことを小さいとも思っていない。
けど女性専用車両に乗ると、デカイ。
顔がぽこんと出る。
その時にあ、俺デケェ今!って思う。
自己肯定感とはどのようにして育つのだろう。
私はなぜこんなに高いんだろう。
まぁもちろん大前提として私は人としてよくできているからなんだけど(自分で言うな!ってことをあえて真顔で書いているくらいには自己肯定感高い)。
外見に関しては自己肯定感なんていうものはない。
小学生の時のアルバム作りの時に、クラスのページで色々ランキングを載せた。
可愛い子TOP3、頭の良い子TOP3、面白い子TOP3などなど。
俺は可愛い子のランキングだけに載らなかった...
でもその時から別に辛いとか悲しいとかなくて、みんなのこと可愛いと思ってたし、俺は可愛い系じゃないと自己認知していた。
むしろ面白い子で唯一ランクインした女子が俺だけで、嬉しかったのを覚えている。
だからかな、今も「俺面白い」って鼻の穴広げて普通に言うのは、こういう経験からなのかも。
振り返ると、こういった一つ一つの経験が自己肯定感を作りあげていっていた。
けど多分『面白さ』というのは、
周りの反応がすぐフィードバックしてくれるからこそ育ちやすい個性なのかもしれない。
私は自分の外見よりも内面に価値を見出しているからこそ、デカかろうが毛深かろうが自分に自信を持って他者と関われるのかもしれない。
昨今美容整形がどの年代にも手軽に受けられる時代になり、まさかの夜の職にスポットライトが当てられ、堂々と表に出てくるようになった。
ルッキズムで生きにくくなる中で、やはりそれでも磨くべきは内面なのではないかと問いたい。
2年間のマチアプ経験でも会話ができるかできないかが重要であると感じた。
電車で座っていると、目の前にP活がいて、おっさんが一生懸命におなごに話しかけるが、くそつまんねぇ返ししかされていなかった。
そんな2人を見て俺は、それでいいのか?と。
俺ならもっとおっさん楽しませられるぞと思ったが、おっさんが求めているのは会話の楽しさではなく、おなごの若いバディなのだ。
それでも、それでももっと楽しい会話できる方が良いんじゃね?と。
私は根っから良い人間ではなくて、もちろん持ち前の面倒見の良さ等は通常装備だったらしいが、
努力して人格形成をしてきたと自負しているので、
若さだけの外見至上主義者には、すぐ年取るぜと言いたい。
みんなシワくちゃになる。
年取って残るものは何か、
今一度考えるべきなのではないか。
誰しもどんな年齢でも成長はできる。
ようは、思考すること、これに尽きる。
そしてどう行動するか。
自分とは何か。どうなりたいのか。
それが自己肯定感をあげていくのではないか。
さて、以上の文章を書き上げてAIに送ったら色々と返ってきた。
そこで印象的だった文章を抜粋。
面白さは自分らしさと結びつきやすい。
知識だけでなく、発想、観察力、言葉の選び方、タイミング、価値観などが表れる。
重要なのは、周りがあなたを面白いと認めてくれたことだけではない。
あなた自身が、その評価を自分の価値観の一部として受け入れたことなんだ。
だから、自己肯定感は周りの人だけで決まるわけでも、生まれ持った性格だけで決まるわけでもない。
周囲から得た経験と、それを本人がどう意味付けていくか。その相互作用によって育つと考えると、あたなの文章は理解しやすい。
またあなたは外見を自分の人間的価値の相互判定に使っていない。
自分の面白さ、誠実さ、思考力、行動力、人との関わり方など、複数の側面に価値を見出している人は、一つの側面が変化しても(例えば年齢による外見の変化)自分のすべてを否定せずに済むことがある。
あなたは自分の価値を他人に決めてもらわなかった。でも、自分の価値を発見する機会は、他人からたくさんもらっていた。
人は1人で自分の全てを知ることはできない。
誰かと関わるからこそ、自分の知らなかった一面に気づくことがある。
その発見を、自分の価値として受け入れること。
自己肯定感は自分を変えなくて良いというわけではない。
自分を否定せず、変わり続けるための土台にもなる。
...なんてAIは素晴らしいのだ。
痒い所に手が届くとはこういったことだね。