ブログを書こうとしてはやめての繰り返しで、
保存記事がたくさんある。
それらを一挙にまとめてしまっても良いんじゃないかとも思う。面倒だとも思う。
アオノハコという青春アニメをみた。
主人公は高校1年生のバドミントン部の男の子で、バスケ部の先輩が気になっているんだけど、ある日自分の家に先輩が居候することになるという、どこかで聞いたことあるような話なのだが、なんていうかな、見ていると心が洗われるのである。
もう私はあの頃には戻れない。
物理的な意味ではなく、心の話。
もう10代の頃のような物事を純粋な気持ちでみつめられることはできないと思うと、どうしようもなく寂しくなることがある。
バスケ部の先輩が誕生日を迎えて17歳になるんだけど、朝起きた時に
おはよう、17歳の私
というんだよね。それを聞いて、私もいつかまでは誕生日を迎えた自分に新しい気持ちを持っていたなぁと、いつから新鮮味がなくなってしまったんだろうなぁと。
今年35歳。十分おねえさんだ。ババアと呼ばれるかもしれない。
子供がいない分、私の精神年齢はもう大人になることはないんじゃないかなと思う時がある。
ある程度働いて、もうこの先こんな風に毎日続いていくんだな、と先が見えちゃっている。
その中での成長って難しいんじゃないのかな。
最近やさしいって言われることがあって、
私は20代の頃から自分のことを180度回って優しいと言っていた。
優しさって自己評価ではなく他己評価であると思うし、何が優しいと思うかって人それぞれじゃない?
私は言い方が強い分(自覚はあるんですけど、直せないのです)優しいとはかけ離れてると思われてがちだけど、その人のことを思ってあえて口に出して言ってる分、何も言わない人より優しいだろ?という思考のもと180度の優しさを売りにしてきた。いや売りでもねぇか、性格だ。
それに対して、優しいよねって言ってるくる人がいて、ちょっと戸惑った。言われたことあんまりないから笑
でもそうなんですよ、優しさなんですよ!と思う。
これまでに出会ったことないとも言われた。
そうなんですよ、180度ですからね!と思う。
はるに、私のこと言い方強くて嫌だなって思わないの?と聞いたところ、私の言い方は通常強いから何も思わないらしい。そこに負の感情が入ってないから。なるほど、それはそうかも。悪気はないんです。
私が優しいと言われるのは多分、その人の本質を受け入れているからな気がする。
みんな違ってみんないい精神。排除しない心。
私が他者をありのままとして受け入れよう!と思ったのは12歳の頃からである。
同級生とは違う中学に行くことが決まり、残り少ない時間をみんなと大切に過ごしたいと思ったことがきっかけだ。
そこから変な人のことも、変な人だな、と受け入れる。そこに好きも嫌いもないのだ。
もちろん好き嫌いはある。人間だもの。
けど多分それが人よりわかりにくい。
だから嫌いな先生の話をすると、嫌いな人とかいるんだねと言われたことも多々ある。いるさ、人間だもの。
この文章の終わりが見えない中、私は突き進んでいるけど、私の根本は12歳の頃から変わらなくて、だからこの先やっぱり成長なんてしないんじゃないかと思う。
けど30代になって、愛する意味を知れたと思う。それだけでもよかったなと思う。
愛する意味を知れた時、私はこれまでもきちんと人を愛してきたことも同時にわかった。
高校の頃の話を聞くと、あの頃私って何も考えずに過ごしてきたんじゃないの?成長期なのに?って思ってたけど、ちゃんと人と向き合っていたし、愛していたんだな、と思う。