先の衆院選において自民党が敗れ、
国会は少数与党という状況になっています。
これを機に、野党は存在感を示す必要があり、
何かの実績を残すことによって
与党が圧倒的多数を占める国会にはできない政治の変化を
「良い兆し」として国民に意識づける必要があります。
その議題のひとつとして注目されるのが
「選択的夫婦別姓」です。
来年のうちには、この制度は日本でも法制化されることでしょう。
ちなみに、私もこの制度に賛成です。
結婚しても今までの姓を名乗りたい人は、
そうすればいいと思います。
その人の人生ですからね。
※
ただ、最近、私が思うのは、
人間というのは、だいたいにおいて
「良かれ」と思って行った判断によって
のちのちに思いもよらない形で後悔することになるというケースが
非常に多いのでは? ということです。
例えば、それは60年代には始まっていた核家族化が
少子高齢化につながっていることとか、
過度なフェミニズムが対立構造を形成し、
社会のコミュニケーション不全につながっている現実などがあります。
それらは「人権」という観点から非常に重要ですが、
先鋭化し、バランスを欠くことによって
コミュニテイや社会の崩壊の直接的な原因になる可能性があると思うのです。
ですから、この選択的夫婦別姓も、
人類という種にとって、あるいは日本人という民族にとっては、
なにかしら後悔することになる要素を孕んでいることは
まちがいないとは思っています。
何度も言いますが、私はそれらに反対しているのではありません。
ただ、その運用は慎重にすべきです。
そしてその結果、とんでもない結論が導き出されても、
我々は自分で選んだこととして、
ちゃんとそれらを引き受ける覚悟が必要だということです。
※
選択的夫婦別姓に限らず、近年の人権にまつわる議論で
私が非常に気になっていることがあるのは、
それが、今を生きている「大人世代」にとってのみ、
便利な考え方なのではないか?ということなのです。
そのような考えで社会をつくっていくと、
すでに大人になっている人にとっては心地いいでしょうが、
これから大人になる世代は阻害されてしまいます。
たとえば、選択的夫婦別姓によって、
別の姓を名乗っている両親の間に生まれた子は、
いったいどのようなふうになっていくのでしょうか。
この制度はそういうことまで深く考えられているでしょうか。
夫婦の当該者のことしか考えていない可能性はないでしょうか。
もちろん、子どもというのは、大人が考えるより
スムーズに状況に順応していきますので、
当面はさして大きな問題は起こらないでしょう。
しかし、その手のことは、バタフライ現象的なカタチで
世の中に着実になんらかの影響を与えます。
何年、何十年も経ってから、
その子の脳の中に植え付けられた何かによって、
社会に対して痛烈な痛手を与える可能性はある。
それが、例えば近代国家の崩壊につながるとか、
そいうことは十分にあり得るのですよね。
きっと今の段階では荒唐無稽に聞こえるとは思いますが。
※
選択的夫婦別姓によって、
近年加速している「家族観」はさらに大きく変化するでしょう。
もちろん、それでいいのかも知れません。
しかし、私が最近気になっているのは、
ゴリラの研究を通じて人間を見つめている
京都大学の山極壽一先生の話から感じることなのです。
曰く、人間は家族という社会と、
その家族の集まったコミュニティという社会、
ふたつの社会を同時に持つことによって進化したということです。
それが人間以外の生物にはない特徴なんですね。
そこでどんな性質が生まれるかというと、
自分だけの利益のためだけでなく、
コミュニティのために何かをするということ。
つまり他者を思う気持ちや行動なのです。
これが悪い方向に転じると、
国を守るために戦争をするというものになるわけですが、
すべて、性質というのは、それそのものが悪いわけではなく、
常にその運用法に問題があるはずです。
民主主義と独裁主義ではどちらが良いのかといえば、
その答えはないのです。
非常に人格者である独裁者が運用する独裁と、
参加意識もなく、深く考えない主権者たちが運用する民主主義では、
どちらがいいのかはわかりません。
ただ、仕組みとしてリーダーの人格に左右される度合いが大きいのは
まちがいなく独裁主義の方であって、
そういう意味での脆弱性はあるでしょう。
でも、民主主義の方が絶対にいいわけではない。
民主主義だって、気をつけて運用しなければ
とんでもない結果を導き出すことには変わりはないのです。
脱線しましたね。
人間という種は、コミュニティと家族の両方を持つことで、
種としての強さを身につけていたわけです。
しかし、近年、人間はその両者を自ら手放して、
過去の悪しき風習として投げ捨ててしまっていますよね。
個人主義がどんどん進行するなかで、
家族もコミュニティも崩壊していっています。
これらが、もしかすると
人類の持続可能性の鍵であるという可能性もあり、
しかしそのことがわかるのは、ずっとあとになってからなのです。
今やっていることの結論がどんなものになるのか、
それは誰にもわからないし、事前には証明もできない。
しかし、何が起きたとしても、それは我々自身で引き取るのです。
その覚悟だけは必要です。
※
システムの是非に関しては、
「仕組み」と「運用」という要素があって、
それらの掛け合わせによって結果が変わるわけで、
どちらの仕組みが絶対的にいいという答えはない。
それが事実です。
それを踏まえれば、勇気を出して言えば、
「フェミニズム」も、
「人権」でさえもが、絶対善ではないのです。
もちろん悪でもありません。
何も決まってはいません。
仕組みをつくれば解決するなんてことは存在せず、
繰り返しますが、大切なのはその運用だということです。
要はバランス感覚なのです。
アメリカでは、過度なフェミニズムや
ポリティカル・コレクトネスが進行した結果、
その反動になるような文化の動きが目立ち始めているそうです。
もしかするとトランプ再選もその結果かも知れません。
そりゃそうだろ、と思いますよね。
そんなに「片側だけから見た正義」を一方的に押しつけられれば、
押し返す力が働くのが人間の心です。
そんな当たり前のことに、そろそろ気づく必要があると思います。
※
話を「大人が決めたルール」に戻しましょう。
大人世代にとって都合のいいルールが、
すべての世代にとって等しく良いものとは限りません。
その象徴が、子どもたちが実質的に遊ぶことや
大声を出して笑ったりすることができない
現代の日本の児童公園です。
今の日本では、近隣に迷惑になるからと、
子どもたちが子どもらしく過ごすことはできなくなっています。
サッカーをやるならちゃんとチームに入り、
ユニフォームを着てやれと。
野球も同じですね。
しかもそこには「金を払って」という枕詞がつきます。
そんな社会では、確かに世界に通用するような
大選手が稀に生まれる可能性も高まるでしょう。
しかし、多くの人が
「サッカーをやったことがある」
「野球をやったことがある」という
底辺の集団的な経験の豊かさは失われます。
果たしてそのような社会が、20年後、30年後に
どんな結果を導き出すかは誰にもわかりません。
恐らく、直接的には効果としてはわからないかも知れません。
しかし、この社会に存在するどんなことも、
実際の社会の形成に関係ないものはなくて、
必ずそれらが潜在的に次の社会の特徴を生むはずです。
その結果を、私は見つめています。
「過度な個人主義は社会を崩壊させる可能性がある」
それが、私が人権の重要性を感じて生きてきたからこそ気づいた持論です。
大切なのは「人間の尊厳」であり、尊厳とはなにか、という
壮大な問いから目を逸らせば、それは非常に表層的な個人間の争いという
低レベルなものに堕ちてしまいます。
その結果は「そんなものない方がよかった」になるかも知れない。
我々は、いま、身につけた人権意識を、
ちゃんと未来に活かせるのか。
壮大な社会実験としての近未来を見ていきたいと思います。
何度も言いますが、私は選択的夫婦別姓には賛成です。
が、それが未来の社会にとって
良いことである可能性は低いかも知れない。
すべては仕組みを運用する私たち次第です。
仕組みは、決めるだけでは機能しません。
主体は常に、私たち自身なのです。
