子育ては本当に難しいですね。
絶対の正解も存在しません。
しかし、私が最近の若者や、親たちを見ていて思うことがあります。
それは「無傷な人生を美徳と思っている」という悪弊です。
公園に行けば、一人で歩き回ろうとする幼子を
必死の形相で追いかけ回すお母さんの様子が見られます。
「ダメよ!危ないから!」というような内容のことを言いながら。
そしてそのようなマインドセットは、
その子が転倒して怪我をするかも知れないその一瞬だけではなく、
その人がその子を育てるにあたって、
常時発動されるものであることが恐らく多い。
母親は(ときには父親も)、とにかく我が子を守ろうとする。
しかし、どうでしょう。考えてみてください。
今日、生まれたばかりの赤ん坊も、
80年生きれば80歳の老人になります。
その80年の人生を、無傷で生きられる人はいるでしょうか?
痛いとか、苦しいとかいう体験をしない人間はいるでしょうか?
そして人間は、それらの経験から多くのことを学ぶのです。
転ばないようにするために歩き回ることを禁じられた子は、
大切な人生経験をしないままに、「守られて当たり前」という常識を醸成します。
しかし、親が子が死ぬまで守り続けてあげられるケースは
滅多に存在しないでしょう。そのことを考えてみたいのです。
※
どうして親は、子が傷つくことをそこまで嫌うのか。
それは、恐らく自分が苦しいからなのです。
我が子に対して思い入れが深くなりすぎるあまり、
その子の痛みが、本人以上に自分にとって苦痛なのです。
我が子が苦しんでいる姿、痛がる姿、泣く姿を見るのがつらいのです。
そのつらさから逃れるために、
恐らく子供を過剰に守ってしまうのでしょう。
つまり、対象は実は我が子ではなく、
自分自身の心なんですよね。
そのことに気づくべきではないでしょうか。
我が子は、自分の持ち物ではないからです。
我が子はあなた自身でもないからです。
子が困難な状況になったり、苦しんだりしているときに、
過剰に守ってあげてしまうと、その子は困難さに対する耐性が
非常に弱い人間になってしまいます。
そして残念ながら、困難さが皆無な人生は存在しません。
その結果として、我が子はより軽微な困難さに対してさえ
非常に苦しむ人生を送ることになってしまうのです。
それはトータルで考えて、我が子のためになっているでしょうか。
※
そう考えていくと、子育てとは、
親にとって「自分とのたたかい」でもあるのです。
口出ししたいところを抑えて口出ししないとか。
価値観を押し付けたり、これが正しいんだ、と
自分の正解を押し付けたりしない。
しかし、親として「人として何が正しいのか」は教育する。
その匙加減は本当に難しい。
子育ては、自分という個人として生きていたときとは
まるでちがう課題と向き合うことです。
語弊を恐れずに言えば、
それは人間ができる経験の中でも、
かなり自分自身が成長することのできるものでしょう。
私がいま、ここで言っているのは「出産」ではありません。
生まれた子を育てていくフェーズのことです。
自分の子とよその人間は圧倒的に意味がちがいますから、
会社や組織での人材育成ともまったく話がちがいます。
そういう一大宇宙が、「子育て」というフィールドなのですね。
※
転びそうな我が子を、そのままにさせておく。
転んで泣いても、泣かせておく。
しかし、大怪我になりそうかだけはちゃんと判断する。
そういう視座が必要です。
すべてから守るのでもなく、すべてを放置するのでもなく、
本当に必要な場面を考え、実践する。
そんな経験は、人の子だったときにはしません。
人の親になったからこその出来事です。
だからこそ、人として親の方が成長するのが子育てなのでしょう。
できる人間が、まだできない人間に教えるのが子育てではありません。
親も子育てを通じて成長していくのが、
本来の子育てなのだと思います。
※
そういう意味において、今の社会では「失敗しないこと」が
非常に重要視されていますよね。
まるで失敗したら、人間として「キズモノ」にでもなったかのように、
決して失敗しないことを美徳としている社会が展開されています。
しかし、それは実はまったく現実的ではありません。
失敗をしないで成功することなど起こり得ないし、
傷つくことで人は年輪を重ねていくことができるからです。
そう考えると、子どもから傷つく機会を極力排除しようとすることは、
豊かな人生経験を子どもたちから奪う行為なのではないかと
私は思っています。
人はいつも笑っている方がいいという人がいますが、
私はそうは思いません。
いつも笑っていたら、笑うことの意味はわからなくなります。
笑えないときがあるから、笑うことが重要なのです。
本当に楽しいことをやっているとき、
人は真剣になるものです。真剣な表情は、笑ってはいません。
笑顔には、ことが終わってからなればいいのです。
それよりも、真剣に打ち込むものがある人生、
夢中になるものがある人生、
なんとかしたいものがある人生こそが、
人にさまざまな価値と教えを与えてくれるのではないでしょうか。
それらのものには、失敗がつきものです。
挫折がつきものです。
いいじゃないですか、失敗しても、挫折しても。
「今が成長のチャンスだね」と言ってあげればいいのです。
その機会をどう活かすかは、本人が決めることです。
決められるのは本人だけなのです。
※
さて、上記のような意見は、
現代社会の中では危険視されるかも知れませんね。
しかし私は逆に考えています。
実際に存在しない、一切失敗しない人生を強要することの方が、
よほど危険なことだと思うのです。
それより、失敗をちゃんと経験し、それを受け止め、
次に向かって歩み出す力を身につけた人間になって欲しい。
失敗のない人間なんて、なんの面白みもないですからね。
人は死ぬ時に、過去の思い出を走馬灯のように思い出すといいますね。
そのとき、どんなことを思い出せるのか。
思い出すことがたくさんある人生が、豊かな人生なのかも知れません。
平穏無事に過ぎることもときには大事ですが、
何か壁にぶつかったときに「おもしろくなってきた!」と言える
マインドセットを育ててあげたいと、私は思います。