現代の日本人(実際は恐らく世界中の人々でしょうが)から

よく聞かれる言葉に、「生きづらさ」があります。

 

この生きづらさの原因は、

「人間というものをよく理解していない」ということであると

言い切ってまちがっていないと私は感じています。

 

それは他者を誹謗する方も、される方もそうだし、

いじめる方も、いじめられる方もそうだし、

とにかく、全員がお互いに「人間」という生き物をわかっていない。

 

人間は、どんどん進化していく中で、

どんどん本来の人間の心の有り様とは逆の方向に進み、

人間自身を追い詰めていってしまったのでしょう。

 

人間が、日々直感的に考えることが、

長い目で見た時にはまちがいである可能性のいかに高いことか。

幸せに生きたいなら、

直感の真逆に行くべきだとすら言えるかも知れません。

 

とにかく、人間というものをもっと深く理解しましょう。

そのためには「わかった気になっている」ことについて

改めて「わかっていない」ことを確認し、

その上で、どのように考えれば理解に近づけるのか、

その部分と向き合っていくしかないのです。

 

 

先日も書きましたが、

たとえばタレントのりゅうちぇるさんの自死について。

私はここで「誰が弱者なのか」ということを

もういちど考えてみたいのです。

 

もちろん、りゅうちぇるさんは、

この件の中で「弱者」だったでしょう。

 

では、なぜりゅうちぇるさんは弱者なのでしょうか?

性的少数者だったからでしょうか?

育児放棄をした「悪い奴」だからでしょうか?

 

ちがうと思います。

 

彼は人々の偏見の対象になったのです。

偏見の対象になることが、「弱者」の正しい定義です。

 

つまり、なんらかの属性に対して「弱者」とするのは、

定義の仕方がまちがっている、ということです。

 

弱者とは、数が少ない人のことではありません。

多くのケースで、数が少ない側なので、

そのように誤解されているだけです。

 

対象が弱者かどうかを決めるのは、

その対象の側に要因があるのではなく、

その対象に偏見を持つ人間がどれくらいいるか、ということです。

 

多少偏見を持たれても、偏見を持たない人間の方が多ければ、

その存在が弱者となることはないでしょう。

しかし、偏見を持たれて、その偏見の力が増大したとき、

どんな人でも弱者になりうる。

 

私が言いたいのはそこなのです。

 

メディアが作り出す偏見の嵐は、

昨日まで普通の人だった存在を偏見の対象にします。

そこに弱者は生まれます。ネットやSNSも同様です。

 

重要なことは、皆さんが想像している弱者の姿と、

真の弱者は、必ずしも同じではないのです。

そして、弱者かどうかを決めるのは、対象の問題ではなく、

常に周りの人間の側に要因があるのです。

 

ここでは「偏見」の中に、

「眼中に入れない」ということも含みます。

 

 

差別を受ける人がいたときに、

その人の属性がイメージ的に弱者であるときは

それほど話は複雑ではありません。

 

しかし、イメージ的に強者だった場合、

その人は実際には人々の大きな偏見に晒されながらも、

弱者と扱われることは決してありません。

 

つまり、人を差別することを批判する人間でさえもが、

対象の立場によっては「こいつなら差別してもいい」と考えて

非難し、差別してしまっているケースがとても多い。

 

これは「差別に敏感な人」であるぶんだけ、

非常に厄介なのです。

 

このような現象は、攻撃する側になっているときと

攻撃される側になっているときとで、

人間の意識が大きく変わってしまうことが原因です。

 

どんなケースにおいても、

常に「相手の立場や気持ちになってみる」ということは必要です。

 

しかし、人々は無意識のうちに

「あいつの身になってあげる必要はない」と切り捨てて、

無責任に他者を断罪してしまうのです。

 

けれどどうでしょう。

本当に人を裁ける人間というのは、この世に存在するのでしょうかね。

 

 

日本人はとくに「他者の気持ちになってみる」ということができません。

とくに「悪い奴」といちど決めつけた人間に対して、

もういちど考え直すことがありません。

 

裁いてしまえば、もうそれでおしまいなのです。

その人がその後、どうなろうと、まったく知ったことではない。

 

だからこそ、失敗を異常なまでに恐れ、

ことなかれ主義、なにかあったらどうするんだ症候群に陥っていくのです。

いつもとはちがうことが起こることを恐れ、

いつもと同じであることに最大の価値をおく。

 

しかしそんなことは完全に無駄なのです。

いく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、と言います。

諸行無常や、盛者必衰と言います。

 

この大宇宙に、変化せずそのままであるものなど、

ひとつもないのです。

昔の日本人は、その無常に価値を見出していましたが、

戦後、経済的な豊かさのみが真実だと誤認して

すべての人間性の価値観を投げ捨ててしまったしまった日本人には、

ただ、「変わらないこと」にしがみつく習性だけが残ったのでしょう。

 

話はすこし外れますが、日本は先進国の中では数少ない、

死刑がいまだに存在している国です。

 

国民に死刑の必要性について聞くと、

「死刑が犯罪の抑止力になっている」と答える人も結構いるそうです。

 

私は、いかにも「人間をわかっていないな」と感じます。

 

例えば人を殺すとき、

私は実際に人を殺したことがないので、想像する他はないのですが、

人はそうするとき、もう通常の精神状態ではないはずですね。

 

そういう状態になっている人のことを、

通常の精神状態の人が想像して、あれこれ考え、

意見することそのものがまちがっています。

 

その人の気持ちになるというのは、

そのときの精神状態まで想像することです。

 

もし人を殺そうとまで思う状態になっているとき、

人は「死刑になるからやめよう」などという理性的な状況ではない。

私は死刑が重大犯罪の抑止力になるという効果はほぼないと思います。

 

それは自死についても同じですね。

「なにも死ぬことはなかっただろうに」などと

軽々しくいう人は多い。

 

とくに経済的に恵まれている人が自死した場合などには、

「なんの苦労もないはずなのに」などと言う。

 

人間には、どんな立場であっても苦しみはあるはずです。

それが自分のものとはちがうからといって、

そのことを批判することはできない。

人は自分の人生しか生きることはできないのですから。

 

自ら死んでしまおうと思う人は、

今の暮らしがどんなに経済的に恵まれていたとしても

それをすべて無価値と思うほどの精神状態なのです。

 

それを普通の精神状態と比較することはできません。

戦場で戦う人の態度を、

クーラーの効いた部屋に寝そべりながら批判するようなものです。

 

そういう点でも、やはり「人間をわかっていない」と思うわけです。

 

 

人間をわかっていない、わかろうとしない、わかる気がない、

そういう人間同士が大勢集まって、この社会で暮らしているのです。

 

問題が起こらないわけがありません。

 

満員電車に乗っていれば、

みんなが自分以外の人間を汚物だと思っています。

ほんの少しでも迷惑を受けたり、その可能性があるだけで、

汚いものを見るような表情をしてみせます。

 

私が思うに、そういう表情をしているとき、

その人自身、ものすごく嫌な気持ちなのでしょうし、

あるいはネガティブな気持ちなのだと思います。

 

しかしどうでしょう。

誰もいない山道をたった一人で歩いていて、

心細いと思っている状況を想像してください。

 

そこに、向こうからその人が歩いてきたら、安心しませんか?

 

つまり満員電車の嫌な気分というのは、

人が余るほど大勢いるから感じるのであって、

誰も人間がいない場所なら、どんな人の存在でもありがたいし、

心強く感じられるのです。

 

また、満員電車で他人に対して嫌な顔をしている人は、

他者を「自分に迷惑をかける存在」と思っているから、

ドアの前でも詰めないし、降りる時は後ろから押してくる。

そうやっている人が、そのとき素晴らしい爽快な気分なら

まだ救われますが、きっと焦っているのです。

 

「誰にも迷惑をかけられたくない!」と焦っている。

わけもなくネガティブな、マイナスな気持ちになっているのです。

都会がそうさせるのでしょうか。

 

しかしその人をマイナスな気持ちにしたのは、

実は他の誰かではありません。自分でわざわざそうなっているのです。

 

マイナスな気持ちというのは、イコール不幸な気持ちといえます。

そしてその不幸の原因を他者のせいにしているんですね。

現代の進化した社会は、自分以外の人間を迷惑な存在にさせます。

 

しかし、そう感じさせているのは、実はその相手ではなく、

他者を迷惑と感じる本人の気持ちであり、解釈なのですね。

つまり、自分で自分を不幸にしている。

その不幸は、「人のせいにする」ということから始まっています。

 

 

そろそろ人のせいにするのをやめませんか?

 

あなたが今、不快な気持ちなのは、

誰かのせいではありません。

あなたが自分でそう感じようとして、自分で不快になっているのです。

 

それが真理であり、心のルールです。

 

そこに気づいて、「自分を変えよう!」と思い、実行しない限り、

あなたは永遠に、死ぬまで不幸です。

なぜなら、幸せになるためのたったひとつの方法を知らないからです。

 

他の人に文句が言いたくなったら、

その人が悪いのではなく、

なぜ自分が他者に文句を言いたくなったのかを考えましょう。

 

迷惑な行為をしている人がいたなら、

なぜその人は迷惑な行為をするにいたったのかを考えましょう。

 

そうして、心穏やかに「この人も幸せになれたらいいのにね」と

少しだけ祈ってあげればいいのです。「がんばってね」と。

 

自分を幸せにできるのは、自分だけです。

自己本位ということではありません。

 

自分の心が、自らネガティブな意識を捨て、

「自分は幸せだ」と解釈することが、幸せの本当の姿だからです。