さて、今、人類は存続しつづけられるかどうか、

という課題を突きつけられています。

 

 

そのことについて異論がある方や、

無関心な方もたくさんいらっしゃるのでしょうが、

残された時間が少ないので、その点については

「気づいてくれ」と願うだけにしておきます。

 

さて、ではどうして今、人類が存続の危機にあるかと言えば、

それはひとえに「今までやってきたこと」が悪かったからです。

 

では、「今までやってきたこと」とはなんなのか?

大量生産、大量消費による大量破棄、そしてエネルギーの過剰な使用ですね。

 

その原因となってきた3大要素が、「お金」という富の代替物、

「資本主義」という仕組み、

そしてそれらの奥底に横たわる「人の欲望」という地球破壊のエンジンです。

 

これらが噛み合わさって、ほんの数百年ほど踊り狂った結果、

地球はあっという間にボロボロになってしまいました。

 

それが、今です。

 

 

誰も勇気がなくて言えないようですが、

もし、この地球上でこれからも生きながらえたいと思うなら、

我々は「今までの暮らし」を捨てなければなりません。

 

今はその「捨て方」を必死で考え、

どんどん実践していかなければいけないフェーズだと言えるでしょう。

 

しかし、それは中々進みません。

なぜ進まないのかを考えてみましょう。

 

ひとつには、「この便利な暮らしをやめたくない」という気持ちの問題があります。

待っていれば技術が進歩して、この暮らしを諦めなくても課題を解決できる方法を

誰かが見つけてくれるのかも知れない!と考える人も多いようです。

 

しかし、これは時間との勝負になるので、

未知の開発に頼るより「今を変える」が先だと思っています。

 

「今を変える」ことを実現して、環境を維持できる活動範囲を見定めた上で、

そのあと、テクノロジーでその範囲を広げていくという順番であるべきでしょう。

 

何しろ人類は新しいテクノロジーを発明しても、

それをスローダウンの方向に使ったことはないのです。

 

家電品を見ればわかりますよね。暮らしを便利にすればするほど、

どんどん時間を別のことに使ってしてしまって自ら首をしめる。

それが人類の癖ですから、

テクノロジーの進化によって環境を保持するという考え方は危険です。

 

 

もうひとつ、課題解決がなかなか進まない理由は、

この現代の経済社会は一日でできたわけではなく、

長い時間の積み重ねの中で変化を重ねて今に至ったものなので、

どうすれば路線変更できるのか、そのやり方がわからない、ということがあります。

 

これまでの人類のスタイルというのは、特別優れた頭脳を持った人間が、

その天才的なアイデアによって変革を起こしてきました。

 

その人物は文字通り「天才」として崇められ、称賛されます。

 

アインシュタイン、エジソン、ホーキング博士などの科学者たちがそうだし、

スティーブ・ジョブズなんかもここに入るのでしょうか?

 

しかし、時代は急激に変化していて、

現代の課題は「一人の天才」の飛び抜けたワンアイデアで

解決できるものではなくなっているんですね。

 

なぜなら、その課題を作ったのはアイデアを思いついた「一人の天才」ではなく、

それによって生活習慣を変えた「その他大勢」、

つまり、我々のような名もなき生活者、一人一人だからです。

 

課題を作ったのが「その他大勢」なら、

その解決も「その他大勢」がみんなでやらなければ、できるわけがないのです。

 

今の社会には問題があって、だから変えなければならない。

私はそう考えますが、「どう変わればいいと思うのか」と問われれば、

「そんなことはわからない」と答えることにしています。

 

すると、「あなたは、自分の中に答えがないのに変えろというのか?」という

印象を持つ人がいるようです。

 

そういう人を見る時、私は「典型的な古い人だな」と感じてしまいます。

「変えられるアイデアがある人が偉い」

「実行できる人が偉い」という尺度は、もう圧倒的に古いのです。

 

私の中に具体的な答えがないのは、

我々が向き合っているのが「正解がない問い」だからであり、

それを考え、実施するのは、他の誰かではなく、あなた自身だからです。


でも、そんなこと考えられませんよね?
だから「みんな」で考えるのです。

 

一人の人間が全ての問いの解を示せる時代はとっくに終わり、

みんなが参加し、みんなで考え、みんなで取り組むという

新しい「やり方」を模索たいのですから、

私は自分なりの解をもたないようにしているし、敢えて解として答えるとすれば、

「それをあなたと一緒に、みんなで考えることです」となるわけです。

 

 

ところで、我々、人間には一人にひとつずつ、「脳」があります。

これをコンピュータに例えるなら、

今までは超高性能な巨大スーパーコンピュータが一台あって、

それがアイデアを出していた。

その他大勢はコンピュータではなく、ただ恩恵を与るだけだった。

 

しかしこれからは、スーパーコンピュータほどではないにせよ、

今までのものよりは多少性能が良くなった世界中のパーソナルコンピュータを

並列繋ぎでつないで、総力戦で課題と向き合う

というカタチを実現しなくてはいけません。

 

ちょうどインターネットがその模式図そのものなわけですね。

そして、その実現のためには、「その他大勢」は

今より多少性能の良いコンピュータになる必要があるということです。

 

しかし皆さん、もう気づかれましたか?

インターネットの世界で、ヒトは有機的に繋がっているでしょうか?

 

もちろんそういう例もありますが、

ネットを通して人々は逆に人間の醜さを増長させてしまっていますよね。

 

そこが変わっていかなければならないわけです。

 

つまり人間は社会性の生き物であると同時に、

社会的攻撃性や社会的排他性に満ちた生き物でもあって、

そのことが大きなネックになっているわけです。

 

人と人がつながって、

みんなで考え、みんなで知恵を出し合って、

上下を決めず、人格的評価をせず、

アイデアベースで判断して有機的に話し合い、やれることから実行していく。

 

失敗した場合は、「原因」を追求し、

改善点を明らかにし、それを実施することに集中し、犯人探しはしない。

 

成功した場合は、個人を評価せず、

アイデアの中身を評価し、特定の人物の「手柄」に矮小化しない。

 

それがこれからの我々のやるべきことですが、

それは同時に「現代人のルールの正反対」であり、

「資本主義が最も苦手とすること」でもあるんですね。

 

企業は「頑張った人間を褒める」と口では言っても、やはり中身は逆で、

褒めることさえも「ダメなやつを探し出して淘汰する」ための道具に使ってしまいます。

 

そういう思考の仕方そのものが、

本当に課題を解決するためにはマイナスになっていくんですよね。

 

評価とは、なんなのか。

なんのためにするのか。

 

「サボっている奴には与えるな!」という、現代人の考え方は、

実は資本主義の常識として植え付けられた妄想であって、

人間が生来に持っている考え方ではないです。

 

そもそもサボるという概念が、「生産性をモノサシにする」という

ひとつの考えから生まれているものであって、当たり前の真理なわけではない。

 

人がネイティブに持っていた考え方はむしろ逆なんですね。

 

 

今、我々が当たり前のように使っている経済社会のルールは、

粗方まちがっていると考えていいでしょう。

 

そうでなければ、今を生きる我々が

これほど深刻な課題と向き合う必要などなかったはずなのですから。

 

「当たり前」と思っていることをひとつひとつ見つめなおして、

「本当にそうだろうか?」と考えること。

 

その思考回路なしに、課題の根本的な解決はありえません。

 

例えば、生活保護受給者を、なぜ悪者だと思うのか?

自分が苦労して稼いだ金から税金を取られ、

その税金をサボってる人間のために使われるのが嫌だと思うからでしょうか?

 

「損をした」と感じるから?

 

では、生活保護受給者は本当にサボっているのでしょうか。

もっと何か別の理由があるのでは?

そう思考を巡らせることが大切です。

 

そもそも、損も得も、お金があるから感じることであって、

脳が作り出した妄想です。

その妄想で、もし不快に感じることがあるなら、

自分の人生を豊かにするためにも、そんな妄想はしない方がいいのです。

 

「お金を理由に他者を責める気持ち」を捨ててみるだけで、

人間は何かから自由になれます。

 

突然、景色は変わります。

そちらの景色こそが、本当の姿です。

 

この大宇宙の中で、お金のことを気にしているのは人類だけだというのが、

間違いのない事実なのですから。