私はアメリカンフットボールというスポーツが大好きで、
一人でも多くの人に観てもらいたい、知ってもらいたいと思っています。
なぜなら、アメリカンフットボールは、
「限りある人生を、いかに生きるか」ということを教えてくれるからです。
こんな題材があるのに、知らないのはもったいないと思うからです。
良かったら、ちょっとお付き合いください。
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アメリカンフットボールには、「勝つ」という最終目的と、
限られた試合時間という条件があります。
そんなスポーツはたくさんあるかも知れませんが、
アメリカンフットボールは1プレー1プレーに「狙い」があり、
そこに関わる11人の選手、一人一人全ての動きに役割がある、
という部分が、他と大きくちがうのです。
「試合に勝つ」という大きな目標達成のために、
時と場合に合わせて「いま、何をすべきか」という戦略を立て、
それをひとつずつ遂行していきます。
そのひとつひとつは勝負であり、成功したり失敗したりします。
それによって、状況はどんどん変化していきます。
やらなければならないことも、どんどん変わっていきます。
流れ行く時間の中で、
いま、なにを成せばいいのか、という課題に向き合いつづける。
それらは、まるで人の生き様のようなのです。
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さて、あなたは自分の人生の中で、
いったい何を達成したいのでしょうか?
その目標に対して、あなたの残された人生は、
いったいどれくらいあるのでしょうか?
そう考えたとき、あなたは今日何をすべきで、
今、この瞬間をどう過ごすべきなのでしょうか?
人生に終わりがあるからこそ成立する逆算。
そこから導き出される「今」。
これは、一見、目を背けたくなることですが、
目を背けようが、直視しようが、厳然とそこにある事実です。
その事実と、ちゃんと向き合うかどうかを、
自分で決めることが大切だと思っています。
物事を決めると、それによるリスクもはっきりしてきますから、
それを自分の責任で引き受ける覚悟があるか、ということも、見えてきます。
ボンヤリではなく、クッキリと。
それがとても重要なことです。
自分がやろうとしていることは、一体なんなのか。
その実態がわかれば、物事は大事なことから順に並べることができますし、
目的と直結させてシンプル化されますので、判断も簡単になります。
それができないとしたら、原因はたったひとつで、
「覚悟がない」というだけなのです。
なにも難しい話ではなく、ただ現実があるだけなのです。
向き合うべき現実が。
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例えば、
原発推進に賛成するなら、
それはイコール原発事故のリスクを引き受けるという意志の表明です。
経済の話と絡めて難しく語る人がいますが、
そんなことは言い訳に過ぎません。
原発事故をなくすために消費電力量を減らさなければならないなら、私はそうします。
世の中が不便になっても受け入れます。
その覚悟があります。
だから、原発推進の人は、原発事故のリスクがあることを認め、
その責任を引き受ける覚悟をしっかりと表明すればいいのです。
例えば、
集団的自衛権の行使に賛成するなら、
それは、それが現実となるときに
自分が最前線に送られることを受け入れるという意志の表明です。
自分が死ぬのは嫌だが、他人ならOKというわけにはいきません。
私は行使に反対ですから、どんなことがあっても戦争だけはせず、
どこまでも対話をつづけるという外交姿勢を支持する覚悟があります。
相手が撃ってきたらどうするんだ、と言う人が必ずいますが、
「なぜ相手が撃ってくるのか」という
問題の核心にアプローチしようとするわけですから、
撃ってきた場合の話とはそもそも話しているレイヤーがちがいます。
まぁ、そんな具合に、現実をしっかりうけとめ、
それに対処する具体的な方法と、その実行力。そして覚悟ですね。
それを学ぶことができるのが、アメリカンフットボールという競技なのです。
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私は、同じ考えを持っているもの同士が、
意見の細部の差にこだわって分断することが嫌いです。
そんなことに気をとられるのは、
馬鹿げているからです。
アメリカンフットボールの試合に例えれば、
試合中に、ひとつ前のプレーについての失敗の責任を押し付けあったり、
犯人探しをしているようなものです。
愚かな行為です。
試合は、いま、目の前で起きています。
そこで期待しない出来事が起きてしまった場合、
本来のやらなければならないことは、
いまの状況に最善となる次の戦略を考え、実行に移すことです。
失敗した原因を特定し、同じミスが二度と起きないように指示することです。
誰が悪かったのか、ではなく、つぎ、どうすればいいのか。
最高のベストがダメなら、セカンドベスト。
それがダメならサードベストへと、アタマを瞬時に切り替えて、
つねに「その状況下での最高の結果を目指す」ことです。
試合の残り時間は刻々と減っていくのですから、
無駄な言い争いをしている時間はないのです。
試合中は反省会をする時間ではなく、
すべてを建設的に前へ前へと推し進めるしかしてはいけないのです。
それ以外の行為は、チームの勢いを削ぐブレーキにしかなりません。
ブレーキの要因は、どんなに小さなものでも排除すべきなのです。
それが、「最善を尽くす」ということだからです。
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例えば、憲法改正の問題を例にします。
今の政権に憲法を変更させると、
長年維持して来た「平和主義」は放棄されます。
それを防ぐために、憲法を変えさせない、
という考え方を「護憲」と言います。
それに対して、現政権が憲法を勝手に解釈して
「平和主義」を放棄しようとすることを阻止するために、
「平和主義を放棄できないように憲法を変えること」を、
「護憲的改憲」と言います。
両者は戦術こそちがうものの、
互いに「平和主義を守る」というコンセプトは同じです。
しかし、ネット上のところどころで、
「護憲派」と「護憲的改憲派」の衝突が見られるのです。
話し合いは、いくらでもすべきです。
完璧な戦術などないのですから、互いの強みと弱みを話し合って、
より良い作戦を立てればいいのですから。
けれど、「あんたは間違ってる」と言ってしまったら、
「平和主義チーム」は崩壊です。
同じチームのベンチにいるもの同士が、
仲違いして協力しなくなってしまうのと同じなのですから。
今必要なことは、憲法について、もっと国民の知識レベルを上げ、
その上で議論を活発化させる、ということです。
チームは手を組んで、その目的に向かって努力すべきだと思います。
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私が現役時代、こんなことがありました。
ちょっとムヅカシイかもですが、お付き合いください。
守備側の話です。
相手のパス攻撃を潰すための、
決め打ちのサインプレーがあります。
ブリッツというのですが。
そのサインが出たとき、守備バックと呼ばれる選手たちは、
相手のレシーバーに対してマンツーマンで守ることになります。
マンツーマンカバーの時、守備バックはレシーバーの内側にセットして、
レシーバーだけしか見ません。
ボールを投げるクォーターバックなどには背中を向けているのです。
なので、レシーバー以外の選手がどんな動きをしているか、わからないのです。
攻撃のサインプレーの中にドローというプレーがあります。
これは、最初はパスプレーに見せかけて時間を稼ぎ、
守備選手を広げてからバックスにボールを持たせて走らせる、というフェイクプレーです。
マンツーマンがコールされているときに、もしも攻撃のプレーがドローだったら、
守備バックには何も見えていないので、とても不利ですよね。
そこで私は大学一年生のときに、コーチに質問したのです。
マンツーマンのとき、ドローだったらどうすればいいのか?と。
守備コーチは私にこう言いました。
「それは負けやな」
私は、とても感銘を受けました。
同時に、私の中に甘えがあったことも、わかりました。
「それは負けやな」の意味は、こういうことです。
相手がドローをしてくるようなタイミングで、
そのブリッツのサインをコールしてしまっていることが、
そもそもチームとして「負け」なのだ、ということ。
何か特定のプレーに強いサインプレーは、別のプレーに対しては弱いのです。
それはつまり、失敗のリスクがある、ということですね。
そのリスクを引き受ける覚悟がなければ、
そういうコールができない、ということなのです。
だからこそ、事前に相手を分析し、
適切なときに適切なコールが出せるように、準備する必要がある。
ということ。
それがサインプレーであり、「戦術」なのです。
私が自分の甘えだと感じたのは、ブリッツのときにドローが来ても、
なんとかする方法があるのだろう、と考えてしまっていたとです。
リスクのあることをやって失敗しても、
なかったことにしてもらえないか?という甘い考えです。
そんな夢のようなことは、ないのです。
では、サインが外れたら「負け」なので、
為すすべがないのか、というと、そうではありません。
「そのとき為すべきこと」が変わるだけです。
サインが外れたのだから、
そのとき相手はこちらの弱点をついてきているわけです。
そういう「もしも」の場合のシミュレーションを事前にしておいて、
「できるだけ損害を小さくする」という目的にアタマを切り替えて、
その実現のために迅速に行動するのです。
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ちゃんと現実を把握して、
そのときにできる最善を尽くす。
それを積み重ねていくこと。
このルールは、生活の中のどんなことにも
当てはめることができる、普遍性を持っています。
夢は夢のままでいいと考えるなら、
現実を直視したり、
自分の持つ戦力を冷静に分析する必要もないでしょう。
けれど、夢を実現しようとするなら、状況の把握と分析、
それを受け入れ解決策を実行に移す判断力と行動力、
そしてリスクを引き受ける覚悟を持つべきなのです。
それらは「同じ時間をいかに有効に生きるか」というモノサシであり、
フットボールは、それを教えてくれるのです。
※
さぁ、人生を試合に例えれば、生きている時間は刻々と減っていきます。
私たちには無駄にできる時間など、もともとないのです。
そのことが見えた時、人はものすごい大きな力を発揮できるものです。
ひとりひとりが「良く生きること」を意識した時、
人類の歴史は変わると思います。