言葉には、それぞれに「印象」がありますね。
いろんな印象があるわけですが、
なぜか「ヤバそうな」雰囲気、というものを持つ言葉があります。
本当は何もヤバくないのですが、その言葉を発すると、
何か変な空気が流れる言葉です。
例えば、「宗教」とか。
例えば、「共産主義」とか。
例えば、「労働組合」とか。
例えば、「運動家」とか。
例えば、「日の丸」とか。
例えば、「天皇」とか。
共通するのは、えも言われぬ「腫れ物」感です。
他の人がいるところでは、その件については話すなよ、みたいな。
そういう話をすれば「お前、そっち系ね?」みたいな。
その言葉がどうして「なんとなくヤバい」印象になったのか。
それには、さまざまなバックストーリーがあるはずなのですが、
実はそれらのイメージは、誰かに恣意的に作られた可能性がある、
ということをちょっと考えてみて欲しいのです。
※
例えば「共産主義」がどうしてヤバくなったか。
それは本来、労働者のための社会という考え方が、
資本主義の中心にいる層にとって邪魔だったからです。
そこで「共産主義」という言葉を、まるで異端で、
気が触れているものであるかのように印象づけた。
そこに共産主義者が暴力的な行動に出たことも、
彼らを「異端」として認識させるには追い風になりました。
しかし、本来、「共産主義」という主義そのものに、
何かグロテスクな意味が含まれてるわけではないのです。
※
「日の丸」がヤバいのは、先の戦争を肯定する天皇崇拝や右翼思想と
紐づけられているからですね。
かつて日本人がナショナリズムを狂信し、その結果、
考えられないような残虐性を露呈してしまった反省から、
「国家に忠誠を誓うという発想は危険だ」となった。
そんな世の中の流れに反して、日の丸を掲げつづけ、
軍歌を流しながら凱旋する右翼に「ヤバい」という印象を持った。
少なくとも、昭和40年代に生まれた私が感じてきた
「日の丸」や「君が代」のヤバさは、
リベラルな発想にその足場を置いていたと思います。
※
さて、時は流れて2017年のいま。
ある言葉が持つ印象が、大きく変わりつつあるように感じています。
それは、「平和」という言葉です。
私が子どもの頃から植え付けられてきた印象は
「平和=絶対善」であり、世の中のすべての人が望むものでした。
当然ながら、その価値感のバックグランドにあるのは、
先の大戦の反省なわけです。
二度と戦争をしてはいけない。平和ほど尊いものはないのだ、と。
そして、戦争の放棄をうたった「平和憲法」を持つ我々日本は、
なんと素晴らしい国なのだろう、と思ったものです。
その「絶対善」であった「平和」という言葉が、
最近、なにやらおかしな響きになっていませんか?
「平和」とは本来、状態を示す言葉であって、
行動を示す言葉ではないと思います。
それが「平和」ではなく「平和維持」という
「行動」を現す言葉になることによって、
突然、あるベクトルを持つに至るのです。
平和を維持する、ということは、
平和を脅かす存在がいて、それをやっつける、
という行動になるからです。
「平和」という状態はすべての人に共有されますが、
「平和を維持する行動」となると、
その維持すべき平和は、いったい誰の平和なのか、誰のための平和なのか、
という規定が必要になります。
「平和」という言葉を行動にすることで、
それは皆のものではなく、ある特定の人々に固有のもになってしまうのです。
本来、「平和」は人を分断するものではないはずなのに、
「平和」のために分断が発生するのです。
いや、分断のために「平和」を利用している、というのが本当でしょう。
そして、ある集団にとっての平和は、
別の集団に採っての「死」である、という考えも生まれる。
待てよ、待てよ。
それは本当に「平和」なのか?
※
最近、役所の広場とか、会議室で、
市民が「平和」に関する集会をやろうとしたら、
場所を貸してもらえなかった、というような珍事が相次いでいます。
その理由は「政治的に偏った思想のために、
公のものは貸し出せない」というものです。
まず、「平和」という言葉は「政治的」なのでしょうか?
そして、「平和」は偏った思想なのでしょうか?
「平和」は状態を示す言葉ですから、その対義語は「戦争」とか「争い」ですよね?
人と人が殺しあう、という戦争を「絶対悪」として捉えていたからこそ、
「平和」は全人類の目的であって、政治的に偏っている、
などという発想そのものが生まれなかった。
共産主義だろうが、資本主義だろうが、民主主義だろうが社会主義だろうが、
そのゴールにあるものは「平和」であると信じられていた。
だから「平和」という言葉が何かの信条を現しているとは考えられなかった。
しかし、ファシズムは平和をゴールにしていない。
だから否定されてきた。そんな歴史があるはずです。
けれど、いま、「平和」が偏っている、というのであれば、
それはすなわち、その対義語である「戦争」を、
「手段としてはそれも『あり』なのだ」と認めるということです。
この異常さを、皆さんに、肌で感じて欲しいのです。
※
世の中にはいろんな考えの人がいます。
いろんな人がいていいことになっています。
いろんな考えがあっていいことになっています。
でも、それは「公共の福祉に反しない範囲で」というルールがあります。
つまり「他人に迷惑をかけない範囲で」という意味です。
ということは、どんなに思想が自由であったとしても、
「他人に迷惑をかける思想」はNGなわけで、
例えば「誰かを皆殺しにしたい」という考えが肯定される、
という可能性はゼロなわけです。
戦争というのは、人殺しです。
人を殺さない戦争というのは、ないのです。
ということは、戦争という方法論があることは知っていても、
実行に移すことは「なし」である、ということで、
日本はずっと来たわけです。
しかし、戦争をしたい人、というのは、いたんですね。
この日本にも。
そして彼らは、戦後・日本の中にずっと定着してきた
「平和=絶対善」というイメージを崩すための策を実施しはじめました。
「戦争をしない」という考え、つまり「平和」という考えが、
「共産主義」や「労働組合」などのように、
なにかいかがわしい印象をはらむように、言葉のイメージを変えようとしている。
そう思うのです。
平和と戦争を、生死に例えるなら、平和=生で、戦争=死です。
それをまるで逆であるかのようにストーリーをつくる。
生きるために戦争が必要で、平和のために死ぬ必要がある。
そういう考えですね。戦前の考えです。
そのように転換させようとする、目に見えない力に
私たちは抗う必要があると思います。
「平和」とは、決して政治的な意味を持つものではなく、
「生きる」という絶対的な価値を持ったもののはずなのです。