北九州市のスペースワールドで、実際の魚の死骸を氷の中に入れ、

その上を滑るというスケートリンクができ、

その賛否が話題となって、ついに営業が中止になったとのことです。

 

さて、私はこのエピソードには

非常に大きな問題点が含まれていると思っています。

 

それは商業目的の思考回路が暴走し、

いったいどんなことまではやってもいいのか、

という感覚が鈍化してしまっている、ということです。

 

レジャー施設はどこも、お客の奪いあいをしています。

消費者は飽きっぽいですから、何か目新しいことをしなければ来てくれないし、

ちょっとやそっとのことでは驚いてくれない。

満足してくれない。

 

そういう施設の開発担当の人は、日夜、どうすれば客が来るのか、

話題になるのか、ということにアタマを悩ませているはずです。

 

それはそれで、ある程度仕方がないことなのだと思います。

 

が、今回のことで、いちばん「マズい」と思うことは、

たくさんの人が関わりながら、みんなで誤った方向に暴走した、という事実です。

 

こういう施設の企画、というのは、思いついたらすぐに実行するものではありません。

実施にはお金もかかるし、時間もかかるので、

恐らく、この冬の集客企画案として、いくつもの案が考えられ、

複数の人間で話し合った結果として、この企画が選ばれ、

そして時間をかけて実行されているはずなのです。

 

まぁ、これくらいの施設では1年はかけていないかも知れないけれど、

半年とか、短くても3ヶ月くらいはかけていると思います。

つまり、それくらい時間があったのに、その決定の行程の中で、

誰ひとり「これはマズいかも知れない」と言わなかったのか?ということ。

 

言ったとしたら、その意見に取り合わなかった、ということ。

 

以前、ガングロのメイクをモチーフにして、

人はだんだん常識が変わっていってしまって、

そのうち自分でも気づかないうちに「ふつう」という基準が

世の中の「ふつう」と著しく乖離してしまうことがある、と言いましたが、

まさにそういうことが起きていると思うんですね。

 

その原因は何かといえば、集客です。

 

つまり、「お金」です。

 

なんとかして金を稼がないといけない。

でも、ふつうのことをやっていても、誰も見向きもしてくれない。

もっと派手なことをやろう!もっと変わったことをやろう!

なんか考えろ!変わったことを!まだ誰もやってないことを!

 

それで人を驚かせるんだ! それで人を呼ぶんだ!

 

そういうことをやっているうちに、「誰もやっていないこと」という課題だけが

一人歩きしたのではないか、ということが容易に想像できます。

そして、ある方向が固まったときに、群集心理のように、

誰ひとりそのことを疑いもせず、みんなで盲進してしまったのでは?

 

このココロのメカニズムは、非常にやばいものなんですよ。

 

それは正しい行いなのかどうか・・・という判断基準を

知らない間にかなぐり捨て、もはやそれこそが最大の目的であるかのように

思い違いを起こしてしまう。

 

そういう人間の感情の暴走は、ホロコーストなど同じ原理なんですよ。

 

普通に考えたら、大量虐殺なんかできんだろ!と思ってしまうけど、

当時、そこにいた人たちにはできてしまった。

彼らは今の我々とちがう低能な人間だったのか?

 

いや、そうではない。我々だって、同じことは起こってしまうのだ。

だからこそ、常に冷静に、「それはやっていいことなのか?」と

客観視する姿勢を忘れてはならないのです。

 

我々はいま、「いきすぎた資本主義」の中に生きています。
その流れの中に首まで浸かってしまうと、いったい何が正しいのか、
見失ってしまうのです。

※ ※ ※

 

ネットで非常に共感できる言葉と出会いました。

もとは英語です。

 

Only when the last tree has been cut down,

the last fish been caught, and the last stream poisoned,

will we realize we cannot eat money.

 

「最後の木が切り倒され、最後の魚が穫られ、

最後の小川が汚染されるまで、

私たちは「お金は食べることができない」ということに

気づかないのだろうか。」

 

どうやら、ネイティブ・アメリカンの言葉のようです。

深く深く共感します。

 

が、この言葉を「スピリチュアル」と受け止めて欲しくないのです。

彼らがスピリチュアルな民族だから、と思って欲しくないのです。

 

世の中で、スピリチュアルと言われていることのほとんどは、

実はスピリチュアルなのではなく、もっと普通のことなのです。

我々人間には、もともといろんなことを感じ取る能力があるんですよ。

 

それを自らの手で葬っているのが、現代人なんです。

 

よく、夜空の星に例えますが、

私たちが経済活動の結果として空気を汚せば汚すほど、

夜の街に、灯りをともせばともすほど、

夜空に輝く星は見えなくなってしまうのです。

 

でも、間違わないで欲しい。

 

よく、「星がよく見える」ということをウリにしている観光地があって、

星空がその土地のものであるかのような錯覚に陥るけれど、

星空そのものは、東京の上空にも、まったく同じものが存在しているんです。

 

あの雲の向こうに、汚れた大気の層のその向こうに、

同じ星空は輝いているんですよ。

星は同じ光を我々に届けている。

 

それを受け取らないようにしているのは、我々自身なのです。

 

それと同じことが、ココロにも起きているんですよ。

もっとココロの目をキレイに保てば、

いろんなことが見えてくる。

だってずっとそこにあるんですから。

 

一見、最初の話とネイティブ・アメリカンの話は

別のように聞こえるかも知れないけど、

つながっているのです。

 

私たちは、お金を食べることはできない。

お金を得るために、死んだ魚の亡骸をスケートリンクの下に敷き詰めて、

その上を滑って遊ばせようなんて、

生命への冒涜以外のなにものでもない。

 

そんな簡単なことにさえ気づく感性がなくなっているとしたら、

それは本当に深刻な問題だと思うのです。

 

もっと「ふつう」の感性を大切にしましょう。