最近よく「なう。」という言葉が話題に上がる。
使用される場所は、ツイッターに始まり、
mixiや各種ブログなどでも取り入れられている「つぶやき」サービスである。
語源は英語の「Now」から来ているらしく、現在の自分の状態を表すつぶやきの最後につけるんだそうだ。
経済評論家に言わせると、元々日本人は独り言や呟きが好きな民族性があるらしく、
それが近年のつぶやきサービスの急増に繋がっているようだ。
そんな世の中、今後はこんなつぶやき逸話も生まれるのではないだろうか。
海上自衛隊に22年間潜水艦乗りとして勤務してきた、橋本ワタルさん(46歳)。
最近のマイブームは愛する娘に教わったTwitterである。
「日本海沖を3ノットで推進中なう。」
彼のつぶやきは自衛隊の間でも話題となっており、フォローは400を越え増加中である。
「7時の方向から魚雷なう。」
日本の海は今日も彼らに守られている。
本能寺の地下より新たに発掘された古文書には歴史の一部が記されていた。
その男、山田玄衛門(26歳)。先祖代々織田家に仕えてきた武家の長男である。
夜深く、君主信長がおりし本能寺の警備をしていたとき、遠くの方より来る敵の軍勢が目に入った。
「桔梗の家紋が見えたなう。」
このつぶやきを見た信長は早々に敵が明智光秀であることに気づいたそうな。
戦さには負けてしまったが、専門家の間では歴史に残る名ツイートとして高く評価されている。
ここは全日本大学体操選手権 男子鉄棒ツィート決勝会場。
鉄棒とつぶやきに命を懸ける男達が緊張の中でしのぎを削る場である。
「現在、日体大のキャプテン岡部が9.84の点数でトップ。次はいよいよ近大のエース中島選手の登場ですが、どうですか解説の吉井さん?」
「中島選手は技のキレはいいんですが、ツィート点の低さでいつも表彰台を逃していますからね。」
「つぶやきに気を取られると着地が乱れるため、難しいところではありますが、前回からの成長に期待しましょう。」
そして、中島は順調に技をこなし、最後の着地技に先ほどの岡部と同じくF難易度の大技を持ってきた。
「F難易度のフェドルチェンコで後方に着地なう。」
英語、カタカナ、ひらがな、漢字が混じったツィートを披露した彼はこの日、人生で初めて表彰台の頂点に上った。
むかしむかし、雪の降りしきる大みそかの晩。
みすぼらしい服を着た少女は寒さにふるえていました。
「マッチ販売中なう。一本も売れないなう。」しかし誰からも返信はありません。
寒さに耐えられなくなった少女は売り物のマッチを一本擦って暖まることにしました。
「暖炉発見なう。」
「道端でガチョウの丸焼きなう。」
「クリスマスツリー綺麗なう。」
その時です、クリスマスツリーの光の中で大好きだったおばあさんがほほえんでいました。
「おばあさんの亡霊と遭遇なう。」
もう会えないはずだったおばあさんは、そのまま少女の手をとって暖かい光の中を天へ昇っていきました。
「とても暖かいお花畑でおばあさんと散歩中な 」
次の朝、街はすっかり真っ白です。
そんな街の片隅で、マッチの火でおばあさんに会い、幸せの中天国へ行った少女と、その手に握られたバッテリー切れのiPhoneのことなど、誰も知りませんでしたとさ・・・。
こんなことを考えている俺がいる日本はおそらく平和なう。
ドラえもんのひみつ道具に「もしもボックス」ってのがありますよね。
電話ボックスみたいなのに入って、「もしも~だったら」のように言うと、
世界がそんな「もしも」の世界になってしまうという道具です。
しかし、実際にそんな簡単に世界が変わったらえらいことです。
それにこの道具、ドラえもんにでてくる「未来デパート」で市販されているということは、
同時に複数人が使用する可能性だってあります。むしろそちらの方が多いでしょう。
それが「ゴキブリが存在しない世界」と「ネズミが存在しない世界」とかの重複ならいいですが、
「Aさんが世界一カッコイイ世界」と「Aさんが世界一かっこ悪い世界」なんて重複の場合どうするんでしょうか?
その場合後から使用した方が上書きされるのか?
■提案
そこで俺が提唱したいのは「もしもボックス=パラレルワールド製造機」説である。
一つの世界を変えてしまうのではなく、新たにそういうパラレルワールドを複製する装置である。
イメージとしては、プログラム上でブランチを切るのに似ていて
スタート ――――― 本流(現行世界)
|
└――― 支流(もしも世界)
このようにある一定の地点から支流の用にもしもワールドが走り出すわけだ。
■では何故「作れそう」なのか?
脳認知学の世界で言われていることだが、
人間が見ている世界とは、実際の物理世界ではなく、
一度「脳」というデバイスを通して見た、言わば「自己仮想世界」である。
目を瞑っても、触覚や音などから得られる情報を「感じる」とは「脳で思考する」ということなので、
人間が脳を使って考えている以上、本来の物質的な世界を知ることは不可能である。
寺の家系として言わせて貰えば、これは仏教などで言う「空」の概念でもあったりすると思う。
瞑想とはそういった感じるというところから逸脱し、本来の世界を知ることでは無いだろうか。
少し話がずれたが、脳で感じたものが「自己仮想世界」なら、
逆に考えると
脳が想像する仮想世界が、普段と同じレベルの臨場感を感じられれば、
それは、今この目に見えている世界となんら変わりないのではないだろうか。
世界とは人間の認識である。とはどこぞの偉人の言葉だが、まさにそうだと思う。
世界があるからそれを認識しているのではなく、認識しているからこそ世界があるのである。
極端な話をすると、人はそれぞれに自分が認識している世界を持っていて、それぞれがパラレルワールドなのである。
分かり易い例を挙げれば映画の「AVATAR」なんかがそれに近いと思う。
また、寝ている時に見る夢もそうだし、授業中の妄想なんていうのも(深度は低いものの)仮想現実世界の生成である。
そろそろ「認識」と「世界」がゲシュタルト崩壊を起こしかけてきた。
ではそれを踏まえると、「もしもボックス」とは
使用者の脳に直接情報を感受させ、
世界に対する認識を強制的に生成する装置のことではないだろうか。
ざっくりとした言い方をすれば「脳に直接夢を見せる装置」である。
そのためにもしもボックスは、
触覚、視覚、聴覚などを操作し易い個室になっているのではないだろうか。
■じゃあ俺の体とかはどうなる?って疑問に対して
当然このような疑問がわくだろう。
「いくら脳を操作したって、俺の体がなくなったり、周りの人たちが消えるわけじゃないし・・」と。
逆に考えて欲しい。
今あなたが見ているこの世界が現実世界だという保障はどこにもないという可能性を。
極論を言ってしまえば、本当の自分ははるか遠くの星に住む魚かなんかで、
これは魚が見ている夢にしか過ぎないのだと。
そう考えると、あなたの体どころかこの地球なんて本当は存在しないし、周りの人たちもいるわけがない。
でもあなたは今それを認識しているから、そこに一つの世界が広がっている。
もしかするとその魚のあなただって夢かも知れない。
電子か、光か、もしくはそれ以外の見えざるエネルギーの流れが少しでも変わった時、
テレビのチャンネルを変えるようにしてその認識世界が切り替わるのかもしれない。
もしもボックスとはそういった脳の認識に意図的に介入し、
今認識している世界と99.9%似ている、少し差異のある世界を作り出す装置。
別軸のパラレルワールドの生成装置ではないだろうか。
元々人類は宗教や哲学と言う名前でこの分野を突き詰めようとし、現在に至る。
このまま脳科学や認知学、精神科学などが発展すれば。
22世紀には発明されていたとしてもおかしくないかもしれない。
書いてから思ったが、ドラえもんの道具ごときに何を真剣に考察しているんだろう俺は。
電話ボックスみたいなのに入って、「もしも~だったら」のように言うと、
世界がそんな「もしも」の世界になってしまうという道具です。
しかし、実際にそんな簡単に世界が変わったらえらいことです。
それにこの道具、ドラえもんにでてくる「未来デパート」で市販されているということは、
同時に複数人が使用する可能性だってあります。むしろそちらの方が多いでしょう。
それが「ゴキブリが存在しない世界」と「ネズミが存在しない世界」とかの重複ならいいですが、
「Aさんが世界一カッコイイ世界」と「Aさんが世界一かっこ悪い世界」なんて重複の場合どうするんでしょうか?
その場合後から使用した方が上書きされるのか?
■提案
そこで俺が提唱したいのは「もしもボックス=パラレルワールド製造機」説である。
一つの世界を変えてしまうのではなく、新たにそういうパラレルワールドを複製する装置である。
イメージとしては、プログラム上でブランチを切るのに似ていて
スタート ――――― 本流(現行世界)
|
└――― 支流(もしも世界)
このようにある一定の地点から支流の用にもしもワールドが走り出すわけだ。
■では何故「作れそう」なのか?
脳認知学の世界で言われていることだが、
人間が見ている世界とは、実際の物理世界ではなく、
一度「脳」というデバイスを通して見た、言わば「自己仮想世界」である。
目を瞑っても、触覚や音などから得られる情報を「感じる」とは「脳で思考する」ということなので、
人間が脳を使って考えている以上、本来の物質的な世界を知ることは不可能である。
寺の家系として言わせて貰えば、これは仏教などで言う「空」の概念でもあったりすると思う。
瞑想とはそういった感じるというところから逸脱し、本来の世界を知ることでは無いだろうか。
少し話がずれたが、脳で感じたものが「自己仮想世界」なら、
逆に考えると
脳が想像する仮想世界が、普段と同じレベルの臨場感を感じられれば、
それは、今この目に見えている世界となんら変わりないのではないだろうか。
世界とは人間の認識である。とはどこぞの偉人の言葉だが、まさにそうだと思う。
世界があるからそれを認識しているのではなく、認識しているからこそ世界があるのである。
極端な話をすると、人はそれぞれに自分が認識している世界を持っていて、それぞれがパラレルワールドなのである。
分かり易い例を挙げれば映画の「AVATAR」なんかがそれに近いと思う。
また、寝ている時に見る夢もそうだし、授業中の妄想なんていうのも(深度は低いものの)仮想現実世界の生成である。
そろそろ「認識」と「世界」がゲシュタルト崩壊を起こしかけてきた。
ではそれを踏まえると、「もしもボックス」とは
使用者の脳に直接情報を感受させ、
世界に対する認識を強制的に生成する装置のことではないだろうか。
ざっくりとした言い方をすれば「脳に直接夢を見せる装置」である。
そのためにもしもボックスは、
触覚、視覚、聴覚などを操作し易い個室になっているのではないだろうか。
■じゃあ俺の体とかはどうなる?って疑問に対して
当然このような疑問がわくだろう。
「いくら脳を操作したって、俺の体がなくなったり、周りの人たちが消えるわけじゃないし・・」と。
逆に考えて欲しい。
今あなたが見ているこの世界が現実世界だという保障はどこにもないという可能性を。
極論を言ってしまえば、本当の自分ははるか遠くの星に住む魚かなんかで、
これは魚が見ている夢にしか過ぎないのだと。
そう考えると、あなたの体どころかこの地球なんて本当は存在しないし、周りの人たちもいるわけがない。
でもあなたは今それを認識しているから、そこに一つの世界が広がっている。
もしかするとその魚のあなただって夢かも知れない。
電子か、光か、もしくはそれ以外の見えざるエネルギーの流れが少しでも変わった時、
テレビのチャンネルを変えるようにしてその認識世界が切り替わるのかもしれない。
もしもボックスとはそういった脳の認識に意図的に介入し、
今認識している世界と99.9%似ている、少し差異のある世界を作り出す装置。
別軸のパラレルワールドの生成装置ではないだろうか。
元々人類は宗教や哲学と言う名前でこの分野を突き詰めようとし、現在に至る。
このまま脳科学や認知学、精神科学などが発展すれば。
22世紀には発明されていたとしてもおかしくないかもしれない。
書いてから思ったが、ドラえもんの道具ごときに何を真剣に考察しているんだろう俺は。
日本語と言うのは実に表現力が豊かな言語と言われる。
よく言われるのが、雨の音一つにとっても
・ざーざー
・しとしと
・ぽたぽた
・ぽつぽつ
・パラパラ
・・・etc
といくつも擬音があるのが日本語である。
でも正直自分は表現が苦手です。
具体的には「たとえ」が苦手だったりする。
例えば料理の味を表現するのも、
「塩味が強くて、少し酢系の酸味があって、少し昆布出汁が効いてる」くらいの説明しかできない。
ともすれば「うん、まあまあ」なんて曖昧な答えしか返せないことも多い。
別にそれが日常生活で困ることなんて無いんだけど、
これでも一応表現者の端くれとしてもう少しクリエイティブな表現をしてみたい。
目標はテレビの料理評論家や、ワインソムリエだ。
そのためには、彼らが使うような語彙を少しでも用意しておくことが大事なんじゃなかろうか。
いやきっとそうに違いない(自発表現)
例えば
・しっとりと滑らかな口ざわり
・外はサクッと中はふんわり
・シャクシャクとした歯ごたえがリズムを感じる
・ほっくりとしていてお菓子のよう
とか、
・辛さの中にもどこか甘みを感じる
・柔らかな酸味が鼻腔をくすぐる
・骨格がありガツンと舌を打つような
・複雑でいてシャープなアタックがある
もっとソムリエティックに
・中世の貴婦人の胸元でまどろむガーネットの輝きにも似た深み
・春の雨上がりにレンゲ摘みに出かけた少女の靴底についた森の土のような香り
・これさえあれば丼3杯は飯が食える
・ミニチュアダックスが氷の上を滑っていくような
・喉から胃に天使の祝福が舞い降りたような
とかどうだろう。
これできっと女の子の手料理を食べて「どう?美味しい?」って聞かれても、完璧に答える自信がある。
Q.女の子「この肉じゃが、美味しい?」
A.「ほっくりとしていて、滑らかな舌触りがクラシック音楽ようなリズムを感じる。
ジャガイモとタマネギの香りが鼻腔を打ち、柔らかな挽肉は雨上がりに天使が喉から胃にガツンとシャープなアタックをかける。あ、貴婦人の靴底でミニチュアダックスが滑ったよ。」
きっとガツンとシャープなアタックをくらう。
よく言われるのが、雨の音一つにとっても
・ざーざー
・しとしと
・ぽたぽた
・ぽつぽつ
・パラパラ
・・・etc
といくつも擬音があるのが日本語である。
でも正直自分は表現が苦手です。
具体的には「たとえ」が苦手だったりする。
例えば料理の味を表現するのも、
「塩味が強くて、少し酢系の酸味があって、少し昆布出汁が効いてる」くらいの説明しかできない。
ともすれば「うん、まあまあ」なんて曖昧な答えしか返せないことも多い。
別にそれが日常生活で困ることなんて無いんだけど、
これでも一応表現者の端くれとしてもう少しクリエイティブな表現をしてみたい。
目標はテレビの料理評論家や、ワインソムリエだ。
そのためには、彼らが使うような語彙を少しでも用意しておくことが大事なんじゃなかろうか。
いやきっとそうに違いない(自発表現)
例えば
・しっとりと滑らかな口ざわり
・外はサクッと中はふんわり
・シャクシャクとした歯ごたえがリズムを感じる
・ほっくりとしていてお菓子のよう
とか、
・辛さの中にもどこか甘みを感じる
・柔らかな酸味が鼻腔をくすぐる
・骨格がありガツンと舌を打つような
・複雑でいてシャープなアタックがある
もっとソムリエティックに
・中世の貴婦人の胸元でまどろむガーネットの輝きにも似た深み
・春の雨上がりにレンゲ摘みに出かけた少女の靴底についた森の土のような香り
・これさえあれば丼3杯は飯が食える
・ミニチュアダックスが氷の上を滑っていくような
・喉から胃に天使の祝福が舞い降りたような
とかどうだろう。
これできっと女の子の手料理を食べて「どう?美味しい?」って聞かれても、完璧に答える自信がある。
Q.女の子「この肉じゃが、美味しい?」
A.「ほっくりとしていて、滑らかな舌触りがクラシック音楽ようなリズムを感じる。
ジャガイモとタマネギの香りが鼻腔を打ち、柔らかな挽肉は雨上がりに天使が喉から胃にガツンとシャープなアタックをかける。あ、貴婦人の靴底でミニチュアダックスが滑ったよ。」
きっとガツンとシャープなアタックをくらう。
