こんにちは、受験パパ@NAGOYAです。

このところ、連載しております「日本の教育、かくあるべし!」です。
今回はその第4弾となります。

今回は、小学校から高校までを総括して、「『学校』そのもの」について、少しお話ししたいと思います。

「学校」は、江戸時代にあった寺子屋や私塾とは違い、(私立学校といえども)国が運営を管理する教育機関です。
江戸時代になぞらえれば、「藩校」に近いものがあります。
ですから、その運営には、国家として統一したルールが定められています。

具体的にいえば、

  • 日本国憲法第26条第2項は、すべて国民は、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負うことを規定しています。
  • 教育基本法第5条第1項は、憲法の規定を再び規定し、同法同条第2項で「義務教育として行われる普通教育は…」との書き出しで、普通教育の中に義務教育があることを規定しています。そして、同法同条第3項で国及び地方公共団体は義務教育に責任があると規定しています。
  • 学校教育法第22条は、保護者は子女を小学校に通わせる義務、同法第39条で、小学校卒業後は中学校に通わせる義務を負うことを規定しています。

この他にも実に細かいことまで、法令によって定められています。


なお、私立学校は、そもそも学校設立の許可者が国や都道府県ですし、上記の法令上の規定に加えて、設立した人物や団体の教育思想が「建学の精神」や「校訓」として教育活動に色濃く反映されています。

いずれにしても、日本の学校は、法令に「縛られた」存在であり、法令を読む限り、義務教育は学校のみが「唯一の教育機関」のようです。

(厳密に規定しているかといえば、やや曖昧な点があるところがややこしいです・・・。)

こうした中で、おおさとしまさ氏が「学校に染まるな!」という著作を発表しました。

 

「バカとルールの無限増殖」というサブタイトルは、なかなか過激な表現ですが、現実の学校には一般常識から言えば、「???」と思える常識やルールが無数にあります。
例えば、私が中学校の頃には、「前髪は、眉毛から1センチ以上!」といって、時折、生徒を廊下に並ばせ、定規で一人一人計測している教員がいました。
本人は大真面目なのでしょうが、今から思えば、バカの極致としか思えません。

本書の中でも言及していることですが、自由な発想で、自由な考え・意見を、自由かつ論理的に組み上げていく力を「養うべき」教育機関=学校が、極めて不自由な空間になり下がっていると思います。

また、立場が異なる者同士が「批判・批評」という形で意見交換を行うことで、より良い内容に高めていくことを学校自身が極力忌避しているようにも見えます。
別の言い方をすれば、議論を通じて真理に迫ったり、結論を導き出したりする経験を「意図的に」させていないともいえます。

この経験は民主主義の基本であり、学術的研究の基本でもあると理解しています。

ですから、実に多くの人が上記の訓練をしていないので、Xで見られる「誹謗・中傷」と「批判・批評」をぐちゃぐちゃに理解している輩を大量に生み出しているように思えます。

日本の教育の最も根本的な課題は、実に多くの学校が極めて保守的な営みを「旨」としており、それを「是」とすることに疑いを持たない、というか、より強化しようとする姿勢にあることだと思います。

理由は、私の考え(過分に偏った考えかもしれませんが)としては、学校で教える内容が「滅多にアップデートされない」から、だと思います。

加えて、上記のようにあらゆることが法令で定められていたり、教育委員会の指導があったりなど、学校現場に「変化することの裁量」が乏しいことも大きな理由のように思います。
 

授業では、去年教えた内容と今年教える内容を、基本的に変更してはいけません。変えてよいのは「教え方」だけです。
ちなみに、教える内容は「学習指導要領」によって、ガチガチに定められています。

ですから、「変える」という発想になかなか行きつきませんし、変えなくても特に咎められるわけでもありません。
むしろ、「変えてはいけない。」という考えに縛られがちですし、そちらの方が尊ばれる傾向にあるように思います。

 

学校は、「思考停止」状態が常態化していると言ってよいでしょう。

そうはいっても、生徒募集と上位学校への進学実績という「目に見える結果」が求められる私立学校は、時代に即し変化しないと生き残れない状況に追い込まれることもあるので、嫌が上でも変化しなければならない分、まだ幾分マシかと思います。

ですが、そのようなインセンティブのない公立学校は、気づいたら「何十年間、何も変化なし」になっていることがほとんどではないでしょうか。
コロナ禍における、ネット授業や連絡手段のネット対応に公立学校と私立学校であまりにも大きな差が発生した根本的な理由は、上記だと考えています。

本来、知識を得て、新しい事象や事柄に対応できるように子供たちを教育していく機関である「学校」が、実は全くそうではないというのは、大変皮肉、かつ悲しい現実ですね。

学校が自らの判断で、良き方向に変わっていくことを切に願いします。