ゆだねることによって、自らの意志を働かせて、意識を大転換させる | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

ゆだねることによって、自らの意志を働かせて、意識を大転換させる

エネルギー傾向の異なるものを、別々に細かく分けようとするのは、男性エネルギーである能動的マインドの働きです。


男性エネルギーに偏ると、潰し合い、独占(排除)し合い、殺し合いの競争の精神が生じます。


エネルギー傾向の異なるものを、ひとつとして受け入れることができるのは、女性エネルギーである受動的マインドの働きです。


受動的マインドの受容性は、ゆだねるという、エネルギー傾向の異なるものと融合したいという意志によって働きます。


ゆだねることによって、個性の異なるものどうしのリンク(=融合)が強化され、助け合いの精神が生じます。



発想の異なる二つの意識を大転換させるためには、三つの気付きが必要です。


一つ目は、自分は最初からすべてを許されているという気付き(=罪悪感、自責の念からの解放)です。


二つ目は、自分は最初からすべてを与えられているという気付き(=欠乏感、孤独感からの解放)です。


三つ目は、すべては喜びのもとにひとつであるという気付き(=恐れによる支配から自由になり、本当の自由と本当の喜びを得る)です。



これらの気付きは、自らのすべてを、創造の源と魂の意志にゆだねることによって、自分自身で自分を許す、自分自身で自分に与えるという意志を働かせることによって得られます。


罪悪感と自責の念や欠乏感と孤独感の経験は、すべては喜びのもとにひとつであるということに、気付くために形作られた現実の経験(=幻想)に過ぎないのです。


形作られない、ただ在るのみの、唯一、本当の現実は、すべては喜びのもとにひとつとして在るということです。


本当は喜びしかないのです。


喜び以外のネガティブな感情は、すべては喜びのもとにひとつとして在るという、究極の真理(=唯一、本当の現実)に、気付くために形作られた現実の経験(=幻想)に過ぎないのです。


だから、意識を大転換させるかどうかは、すべては喜びのもとにひとつであるということに気付きたいのか、気付きたくないのかという、個人の意志にかかっているのです。


気付きたくなければ、すべては恐れのもとに別々であるという、幻想を見続けることになります。


しかし、それも、すべては喜びのもとにひとつであるという、唯一、本当の現実に、気付くために形作られた現実の経験(=幻想)ということになります。



すべては恐れのもとに別々であるという、形作られた現実の経験(=幻想)を通して、創造の源と魂の意志にゆだねることによって、最初から自分は、すべてを許され、すべてを与られているという気付きを繰り返せば、最終的には、すべては喜びのもとにひとつであるという、唯一、本当の現実(=究極の真理)に気付くことができるのです。


自らの本質である、永遠に尽きることのない、無限(=無償)の喜びのエネルギーとつながり、最初から喜びに満たされていて、見返りを求める必要がない、無償(=無限)の奉仕の精神(=助け合いの精神)を持つことができるのです。



自分で自分を恐れから守ろうとして、自分自身や自分以外の誰かや何かを傷つけることによって生じる苦痛(=罪悪感・自責の念と欠乏感・孤独感)よりも、恐れを打ち消し、ごまかすために手に入れる、快楽(=肉体的・物資的な形に囚われた喜び)の方が大きければ大きいほど、その快楽を手放して、自らのすべてを、創造の源と魂の意志にゆだねることが難しくなってきます。



だから、手放すために、快楽を手に入れようとすることが、より大きな恐れと苦痛と困難を作り出します。


ゆだねることができないから、恐れが生じ、恐れが生じるから、その恐れから自分で自分を守ろうとします(=恐れを打ち消し、ごまかすために快楽を求める)。


恐れから自分で自分を守ろうとすることによって、自分自身や自分以外の誰かや何かを傷つけて、それが苦痛(=罪悪感・自責の念と欠乏感・孤独感)となります。


だから、手に入れる快楽が苦痛を上回っている間(=ごまかしきれている間)は、ゆだねることができないのです。


苦痛が快楽を上回ったときに、ゆだねることができるのですから、ゆだねることができないときには、自分で自分を恐れから守るためにしていること(=恐れを打ち消すために快楽を手に入れること)を止めてみればよいということになります。


そうすれば、苦痛(=罪悪感・自責の念と欠乏感・孤独感)が快楽を上回って、ゆだねることができるようになり、その結果、もととなる恐れが解消するのです。



最初からすべてとのリンク(=つながり)によって、無限の喜びに満たされていれば、見返りを求める必要はなく、無償の奉仕の精神(=助け合いの精神)を持って、それぞれの個性が、ありのままにその能力を発揮してできることをすればよい、ということになります。


なぜなら、それが自らの本質(=すべては喜びのもとにひとつとして在る)だからです。


潰し合い、独占(排除)し合い、殺し合いの競争の精神で快楽を求めることは、最初に恐れと欠乏感があるから、欲望を満たすことによって、恐れを打ち消して満足感を得ようとするものであって、最初から尽きることのない喜びに満たされている、無償の奉仕の精神(=助け合いの精神)とは、真逆の発想です。


恐れや満たされない欠乏感・孤独感にもとづく殺し合いの精神は、自らの本質ではなく、すべてがリンクでつながっている、無限の喜びのエネルギーが自らの本質なのです。