『ポジティブ・ネガティブ』と『肯定・否定』と『光・闇』と『善・悪』について考察する。 | ------時給数百円のフリーターが学ぶ本当の愛

『ポジティブ・ネガティブ』と『肯定・否定』と『光・闇』と『善・悪』について考察する。

まず、辞書で調べた言葉の意味を書いてみます。



ポジティブ:積極的な、肯定的な


ネガティブ:消極的な、否定の、拒否の、反対の



肯定:その通りと、判断し認めること


否定:そうではないと、判断し斥けること



許容:判断せずに、許して認めること



光:光るもの、光ること


闇:光が全くない状態



善:正しい、道徳にかなった


悪:正しくない、よくない、不道徳




僕も、最近まではっきりと理解していませんでしたが、一番重要な点は、「光がポジティブであり、闇がネガティブではない」ということです。



ポジティブとは、積極的な許容という意味であり、光と闇のどちらも、同時に、どちらか一方という条件付けや判断を一切せずに、許して認めることです。


そして、ネガティブとは、消極的な許容という意味であり、光と闇の内、どちらか一方を肯定し、他方を否定するという判断の入った、条件付きで、許して認めることです。



本来、対になっているひとつの観念である光と闇の、どちらか一方を肯定し、他方を否定する。


この「どちらか一方を肯定し、他方を否定する」という『判断』が、『影』となります。


この影が、光からの分離を引き起こし、光から分離した闇が姿を現わすのです。



影により、光から分離し、闇が姿を現わしているときには、恐れなどのネガティブな感情が生じます。


光と闇をどちらも同時に、一切の条件付けや判断をせずに許容すれば、影はなくなるので、闇は光から分離せずに、光と一体になります。


そして、光と闇が一体となっているときには、喜びなどのポジティブな感覚を持つことができます。




次に、善と悪について考えてみましょう。


相手が自分に危害を加えることを、『悪』、危害を加えないことを、『善』としてみましょう。


相手が自分に危害を加えるのではないかと、見た目で判断して、否定すれば、それは、同時に、危害を加えないことを、見た目で判断して、肯定しているということになります。


その場合、どちらか一方を肯定し、他方を否定するという、判断をしているので、消極的な許容となり、分離を引き起こす影となり、ネガティブということになります。


だから、積極的な許容、どちらも同時に、一切の判断や条件付けをせずに、許容する、ポジティブであるためには、たとえ、見た目で、相手が自分に危害を加えるかもしれないと思うような状況に遭遇したとしても、それを一切否定せずに、許して認めなければならないのです。


見た目で、相手が自分に危害を加えないと思うような状況に遭遇した場合と同様に、それを否定せずに、許して認めなければなりません。


相手の見た目が、自分に、危害を加えそうであってもなくても、どちらか一方ではなく、どちらも同時に可能性として、あり得ると認めて、受け入れなければならないのです。


それを積極的に許容していれば、以前は、相手の見た目が、自分に、危害を加えそうだと思い込んでいたのが、たとえ、相手の見た目が、危害を加えそうな場合であっても、相手の見た目が、危害を加えそうにない場合と同様に、自分に恐れの感情は生じてこなくなります。


そうなれば、自分の心の状態である恐れを、相手に投影して、自分を守るために、相手を否定・排除しようと攻撃する必要がなくなり、自我の防衛本能を発動させることなく済むのです。自我の存在の危機を回避することができるのです



見た目で、相手が自分に危害を加えそうだと思い込むと、自我の防衛本能が発動するので、心身が緊張し、恐れが強くて、その緊張が過度になると、心身に痛みを生じてきます。


相手を否定し、排除するために攻撃するという行動に出なくても、自我のその防衛反応である、過度の緊張のために、自分自身の心身に痛みを生じてしまうのです。


自我が、自分を守るための反応が過剰である場合、自分自身の心身に、その歪みとしての、痛みが生じてしまうということなのです。


自我による危険回避は、自我が、ハートの合一の認識と分離しているために、見た目の相対的な形に囚われてしまい、大きな矛盾が生じ、その矛盾が、心身に痛み(=歪み)として蓄積されてしまうのです。




本来、対になっているひとつの観念の、一方の面を肯定し、他方を否定する場合、自我の相対的な認識と、ハートの合一の認識が分離するために、恐れが生じます。


その恐れによって、ハートが自我に、認識の方法を変えるように促しているのです。



恐れの感情が生じても、認識を変えれば、恐れが痛み(=歪み)となって、心身に蓄積されることはありません。


しかし、認識を変えずに、自我の相対的な形に囚われた認識のままであれば、本来、対になっているひとつの観念の一方を肯定し、他方を否定するということが、ハートの合一の認識との間で矛盾を生み出し、その矛盾が痛み(=歪み)となり、心身に蓄積されることになります。



僕にとっても、その認識を変えるチャンスは、これまでも度々ありましたが、今まで、自分が、それを選択せずに放置してきましたので、まだ、たまに、同じような場面に遭遇することがあります。


しかし、たとえ、そのときに、恐れの感情が生じたとしても、恐れは強くありませんし、見た目に囚われた思い込みも、すぐに消えてしまうので、その形に囚われたことにより生じる矛盾が、心身の痛み(=歪み)となった場合も、長期間に渡り、痛みがとれなくなるということはありません。

(※その場面での思い込みが消えるということであって、根本的に認識を変えたということではありません。その場合は、また、次の場面に遭遇したときに、同じ思い込みにより、恐れが生じてしまいます。)



僕は、いつでも、より完全な調和を望んでいますから、今持っている不完全な認識を、より完全な認識に変えて、より完全な自由意志を持ちたいと願っています。


なぜ自分が、ある状況に遭遇したときに、恐れを持つのかに、気付いたときには、意識していなくても、意識は変わるのです。


気付いたということは、意識が変わったということだからです。



『気付く』ことによって、『より完全な認識(意識)』に変わっていきます。


『より完全な認識(意識)』に変わると、『より完全な自由意志』となり、一切の条件付けや、判断をせずに、許し認めることのできる意識の範囲、許容範囲が拡がっていきます。



そして、意識の許容範囲が拡がることによって、本来の無条件の愛の在り方に近づき、幸福感のエネルギーも、もとの在り方へと、拡大・増加していくのです。



「どちらか一方というような、一切の判断や条件付けをせずに、危害を加える(悪)と、危害を加えない(善)が一体化しているときには、危害を加えない(善)が姿を現わします。


そして、どちらか一方を肯定し、他方を否定するという、判断をしたときには、その判断が影となり、善から悪が分離して、悪が姿を現わすのです。」