知識人とはテレビを観ない

そんな話しを昔はよく聞いた



バラエティ番組はもちろん

ワイドショーや音楽番組

ドラマやドキュメンタリー番組も

観ないとなると一体

普段は何をしているのだろうと

昔は不思議に思ったものだが

最近はあらゆる知識人達が

YouTubeで語り合っているものだから

不意にその謎を解いてくれる



彼等はクラシック音楽を聴き

仲間達と語らいながら情報交換をし

ほとんどの時間を

勉強に費やしているらしい

もちろん個人的な感想だけれど



日常という舞台では

稀にしか心を揺さぶる

ドラマティックな展開には

出会えないものだから

誰もがフィクションに憧れるけれど



映画の全盛期なら

オールナイト営業の劇場などもあり

知識人達もこぞって

観賞したかもしれないけれど

テレビの2時間ドラマなどまで

敷居が低くなると

エリート意識が邪魔をして

途端に観なくなったのだろうか



今にして思えば

自分がどれだけテレビの齎す情報に

踊らされていたのかを実感して

あえて見ないようにしてから

改めて自分の感覚に敏感になると

フィクションよって齎される

ドラマティックな物語に

没入出来ない自分と出会い

知識人達の感覚の一端を

勝手に知った気になっている



彼等も一般人が

好きな流行歌手の歌を

列挙しながら

語り合うように

クラシック音楽の作曲者や指揮者

奏者や歌い手について

熱心に語り合っていたのだから

音楽の楽しみ方に

あまり変わりはないのかもしれない



知識人と一般人の違いは

情報の入り口の検問所の有無

得た情報を分析してからの

取捨選択の精度だろうか



そもそも聞いた話しを

そのまま誰かに伝えるのが一般人

嘘か誠か確かめてから

活用するのが知識人

たとえ有用な情報を得てさえ

一般人はほとんど活用などしない



その選択基準から

格差は始まっているのだから

これを解消するのは

おそらく無理だろうけれど



義務教育の早い段階で

優秀である事を見出されてしまうと

進学校へ行くように仕向けられ

そこで同レベルもしくは

一般人よりはマシな仲間と出会い

そのまま社会へ旅立つのだから



優秀な知識人で

あればあるほどに

一般人の感覚が理解出来ず

明治の時代なら

まるで家畜でも見るように 

知識人は一般人を

捉えていたかもしれない



親潮と黒潮が出会うように

優秀な知識人の官僚達が政治家と交わると

言葉は通じるはずなのに伝わらず

何故かいつも違う方向へと流されてしまい

いつの間にやら政治とは

答えに辿りつかないようにするものと

洗脳されてしまったに違いない



異なる流れの交わる場所は

極上の漁場となるのは必然なのだから

ありとあらゆる種類の人間が

まるでプランクトンのように食い物にされ

より多くを養分とした者が

発言力という権力を勝ち取る

まさにTVの出演者がその最たる存在



知識人の弱点は

幼い頃に培われた道徳心

1+1=2という

明確な正解があるのだから

どんな政策であれ

原理原則に当てはめた

数学言語を駆使さえすれば

自ずと正しい政策を実行するだけで

未来は明るくなるのだから

それを選ぶだけで良い



もしも政治家という名の一般人が

その理屈を理解していないのであれば

教えれば良いと考えて

しっかりとレクチャーをする

しかし政界に正解は要らないと

次第に雰囲気で察し始めて

多くの知識人が絶望した事だろう



共産主義や社会主義では

一般人は満足出来なかった



知識人達はおそらく

学ぶにつれて成長を実感し

自己実現を重ねて

自信を深めて行くのだろう

けれども一般人とは

必ずしもそうでは無かったはず



あるプロ野球の

名監督が言った弱者の戦い方とは

言い方を換えると

正攻法で勝てないのだから

邪道を貫いて詭弁でねじ伏せろ



現実とは結果で判断されるのは

知識人も一般人も同じなのだから

間違っていたとしても

大事なのは過程ではなく結果

邪道なのだから

当たり前に結果が出た途端に

問題が具現化される



知識人達はおそらく

その予測すらもしているのだから

詭弁を責めるよりも

まずは目の前の課題を克服する事に

集中せざるを得ない



国同士の戦争のように

政界の闇戦争は赤羅様では無い

お互いが笑顔で

殴り合うような戦いには

当然に遊んでいるように思う者もいて

まさかホントに殺し合いになるとは

ほとんどの一般人は思いもしない



たとえば映画を 

自身の記憶から出て来る

言葉だけで語ると

どうなるだろうか



本人は上手く語れていると思っても

聞き手にとってはイマイチ理解出来なかったり

まったく語り手の思いとは違う

印象を受けてしまう事もあるだろう



情報交換などは

いつもどこでも誰とでも

行き違うもので

親子も恋人も友人も

パズルピースのように

ぴたっりとは収まらない



それでも

その関係を続けているのは

理性ではなく感性だろう

そのバランス感覚を

有するのはどちらも同じ



SNSを通して

顔も名前も晒さない卑怯者と

正攻法で対峙する知識人



知識や経験も

ものの捉え方も違い

思いの温度も違う

それでも同じ国に暮らす

有能と無能が言葉を交わす

デジタル交差点




様々な人々が

顔も名前も知らない誰かと

時には叱り

時には諌めながら

言葉を介してやり取りしている



こちらはまるで映画でも

観るかのように閲覧しているだけで

楽しめるのだから

安上がりなリアルシアターを

今は観るのを止められない