死にたい欲求が無いのには
おそらく何かしらの理由がある
幼い頃などは
ほんの些細なきっかけでも
死んでしまおうと考えて
実際に行動に移してみたら
たまたま思いついた方法が
切腹の一択だった事もあって
包丁を腹に当てただけで
そこから先の尋常ではないであろう
その痛みを想像しただけで
怖ろしくなり
自分には自殺は無理だという
思い込みを植え付けたおかげなのか
その後の信じられないくらいの
冷たい人生において
ただの一度も死のうとは思わなかった
むしろ幼い頃に抱いた悩みよりも
圧倒的に絶望的な状況なのに
常に逃げる事だけに集中出来たのは
一度死ねないという絶望を
体感したからではないだろうか
冷たい包丁の刃先を
なぜか裸の腹にそっと当てた
その頃は
テレビドラマの時代劇を
よく見ていたから
自殺といえば切腹だったから
覚悟を決めた幼い私は
当たり前に上半身裸になり
腹を切ろうと試みた
鋭い包丁の刃先を
腹の皮膚に軽く触れる程度
出血すらなかったけれど
あの冷たい刃の感触は
数十年が過ぎ去った今でも
心に残ったまま
幼い阿呆な小僧とはいえ
死への一本道しか見当たらず
家族の寝静まるのを待って
台所へと忍び足で包丁を取りに行く
それまでの時間ほど心細い感覚は
未だに味わった事が無い
いつも通りの一日を過ごし
当たり前の夕食と入浴を済ませ
早く寝なさいとお叱りを受けてから
部屋の照明を消して
暗い部屋の中で天井を見つめながら
家族が寝静まるまで待つ間の事は
不思議と何も覚えていない
計画通りに
包丁を自室へと持ち込み
いざッと声に出して
服を脱いだ
結局何度か
刃先を腹に当てては怖くなり
何度目かで諦め
包丁を台所のいつもの場所へ戻し
部屋へ戻るとぐっすりと眠れた
人生の中で
難しい決断を何度かしたけれど
おそらくそのほとんどが
幼い頃に集中していて
その決断の影響を今も尚
受け続けている
死を覚悟すると
道は一本に集約される
前にあるのは死のみ
阿呆な小僧はその道が怖ろしくて
進む事を諦め引き返し
その一本道から
別の道が現れる地点まで戻った
引き返して別の道が現れた時には
おそらく安堵したに違いない
だからこそ死へと誘った問題は
何一つ解決していないのに
その後はぐっすりと眠れたのだ
安堵した時の事は
はっきりと覚えてはいない
死ぬという恐怖からは
逃れられたけれど
そもそもの問題には
立ち向かわなければならない事も
同時に確定したのだから
喜びなどは無かった
前と後ろ
どちらの恐怖へと飛び込むのか
究極の選択だった
結果として元々の問題に対する恐怖に
飛び込む決断をした事により
問題が起こる日時を
次の日へと先送りに出来た
その決断を下せた満足感なのか
まるでご褒美のようにぐっすり眠れた
あれから数十年
今もこうして暮らしているのだから
元々の問題も乗り越えられたのだ
少なくともあの時
死を選ばなかった事によって
幾度もの分かれ道に出会い
そしてその度にどちらへ進むのかの
決断を下し続けて今に至っている
死と天秤にかけた
問題よりも比べ物にならないくらい
辛く惨めな道程だったけれど
あの刃先の冷たい感触の恐怖が
死への恐怖と結びついて
自分には死を選べ無いのだという
思い込みが無ければ
おそらくこの不毛な人生の壁を
乗り超えられなかったに違いない
それとは逆に
死ななければ良いという
楽観主義に目覚め
怠惰を増長させたおかげで
その後の困難な道を
あえて選ぶきっかけになったという
捉え方も出来るかもしれない
言動という現象を
通さない限り
他者は情報を得る術が無い
意見を表明する
言葉でも文字にでもして
誰かが気づける現象を起こさなければ
助けを必要としていても
おそらく誰も助けてはくれない
自分の思いとは裏腹に
他者にはその人の感覚があり
何もしなくても様子がおかしいと
観察してはいるかもしれないが
助けを求めているという確信がなければ
声をかけては迷惑になる
もしくは逆に変な目で見られるかもしれないと
手を差し伸べる事を躊躇ってしまう
一人で手首に
躊躇い傷を作るなら
橋の欄干に登ったほうが
他者へ気づかれるとは
分かってはいても
なかなか実行に移せない
死への恐怖からの逃亡
それがこれまでの活力であり
蜘蛛の糸でもあった
けれども
それでは超えられない壁が
今また目の前に現れ
ずっと迂回し続けているけれど
その終わりは見えない
その壁の向こう側にある何かを
欲している自分に気がついた時に
元々あちら側にいた事に気づき
その記憶を巡り
そして目の前を通り過ぎる
親子の姿を目にして確信した
ヨチヨチ歩きの幼子が
楽しそうに歩いては振り返り
大好きな人がいる事を確認すると
ニッコリと満面の笑みを浮かべて
また歩き出す
不意に引き返して
その大好きな人へ向かい
両腕を広げて抱っこをせがむ
ヨチヨチと歩き寄り
また両腕を広げて見上げるその人に
抱きしめられた時の
安心感に包まれた感覚
その壁の向こう側にあるのは
おそらくそういった類の
幼い頃には当たり前にあった
その安心感なのではないか
そう感じた時に
死にたくないだけの人生では無く
昔は当たり前にあった
あの安心感を取り戻して
もう一度生きてみたい
そんな願いが浮かんで消えた