終戦の日や原爆の日と

日本の夏と言えば

何かと戦争に纏わる体験談を

風化させてはならないと

理由の分からない義務感が

国中にばら撒かれる


政治家やメディアが

一致団結出来るテーマが

戦争放棄論であり

空襲体験や被爆体験の

高齢になった語り部達へ

芸能人などを絡ませて

その苦難の歴史を語り合い

涙しながら聞き入るその映像を

目にする機会が多い


私のような

高齢世代はハッタリ世代

嘘も方便と言葉を

巧みに使いこなしては

世論誘導しているのだろうと

疑うような側からすると

その体験者の話すその内容すらも

どこまで信用すれば良いものか

線引が難しいと思う


そもそも

軍人の戦地での体験談よりも

国内の体験談が多い事からしても

世論誘導のように感じる


戦時中などは

おそらく誰にとっても

良い思い出ではない

その体験を八十代以上の高齢者に

毎年同じ事を語らせても

去年と話が変わっていないのだろうか


十代や二十代の時の

遠い記憶を遡り

その一瞬の爆発の瞬間などを

はっきりと記憶出来るのだろうか


むしろその後

体験談を語る時に

あまり覚えていないなどと

話してしまうと

途端に誰にも見向きもされず

その物足りなさから

話を大きくしているかもしれない


もちろんこれは

個人的な思い込みだ


ただ最近は

あまり聞かなくなった

シベリア抑留経験者の体験談も

北海道に暮らす身としては

真冬に暖も取れない環境などでは

凍死するのではないかと

幼い頃から思っていて

生きて帰って来たのだから

それなりの環境を与えられていたのは

おそらく間違いない


ただ本人にしてみれば

不本意な形での強制労働なのだから

納得など出来る訳は無いし

その気持ちを言葉に乗せてしまうと

おそらく真実とはかけ離れた

内容になっても仕方が無い


被爆の被害者の方々は

戦後と呼ばれる期間のすべてを

その苦しみに

耐え続けているのだから

その怒りや悲しみは

計り知れないが

その体験談がその個人の

感覚を除いた事実だけには

おそらくならない


個々人の価値感を通さずに

言葉に残す事はおそらく不可能だが

その不完全な伝承からでも

何かしら未来への糧にはなる


地方創生を政府が

目標に掲げるのなら

八月の戦争体験のように

田舎と呼ばれる地域に住む事に

強くこだわる人々の声に

もっとしっかり耳を傾ける事が

大切なのではないかと感じる


メディアの

取り上げ方の特徴として

大きな災害の

被害やその被害者を

何度も繰り返して

毎年その被災日に取り上げては

支援を呼びかけるが


たとえば生まれてから

ずっと劣悪な環境で過ごし続ける

どこかの子供などを

定期的にその悲惨な状況を

取り上げたりしないのはなぜだろうか


おそらく分かりやすい

目印が無いからでは無いだろうか


戦争や大地震や大津波などは

義務教育の歴史の授業で習い

誰もがその被災日を

テスト問題にされたりして

覚え易くて象徴的な目印になるから

まるで記念日のように

毎年のニューストピックにされる


それに比べて

終わりの見えない

子供たちの貧困問題などは

特別な日を作るわけにもいかず

メディアでも取り上げ方に

苦慮しているのかもしれない


愛は地球を救うと言うが

障害認定もされない無能は

誰が助けてくれるのだろうと

ずっと考え続けていたけれど

案外と支援窓口はそこらにあっても

その情報を見つけられないのが

無能だから噛み合わない


スマホで検索すれば

何かしらの情報にはありつけるが

その検索ワードが分からなければ

おそらく見つける事は難しい


職場という組織に属せば

人材不足なのだから

自然に資格取得や役職へと

取り立ててくれるかもしれないが

無能であれば環境だけを

整備されても上手くは出来ない


だから支援が必要なんだけれど

類は友を呼ぶとはよく言ったもので

無能を雇う企業側も無能だから


前例踏襲が通用しない時代

常識の過渡期なのだから

必要に応じて臨機応変な対応を

しなければ乗り越えられない

その為の状況判断基準は

過去の経験の積み重ねだけれど


無変動時代に

コミュニケーション能力で

組織内での出世競争を勝ち抜いた

管理職達に実務能力など

ある筈もないのだから

無能と無能のコラボレーションは

0×0に等しく何も生まない


政府主体で行われている

最低賃金の値上げペースについて来れない

中小企業は今や窮地に追い込まれ

その資産をあらゆる影響力につぎ込んでは

社会不安を煽り立て

国の支援を勝ち取って

生き残ろうと躍起になっている


常識の転換を迎えると

いつの世でも右往左往するこの現象が

起きるのは当然なのだろう

新しい秩序が定着するまでには

しばらく時間を要すのだ


しかし一度

その常識が一般化されてしまうと

後戻りは出来ない

それは今に生きる我々が

戦前や戦時中の思想や常識を

受け入れられない事が証明している


上司の示す前例踏襲が

何も目の前の状況を好転させないと

理解したからといっても

自分にもどうすれば良いのか

分からないから

仕方無しに惰性で現状を維持しても

一つ歯車を失えば

その職場が崩壊する


そのリスクには

気づいていても足掻かない

足掻けない


実際に中小企業の倒産は

増えているだろうが

この社会環境を人の身体に例えると

同業他社が自然淘汰されるのは

痩せ細るに等しく

その言葉をダイエットに変換すると

何となく前向きな印象に変わる


新しいなにかに挑戦して

その目標に到達してもしなくても

その為に行った体験が

身体の血肉となり

新たな筋繊維を生み出す


腕立て伏せが

一桁回数しか出来なかった身体から

二桁回数出来るようになった身体へと

変わるだけで

おそらく頭に浮かぶ選択肢が増えて

新たな選択肢を選ぶだけで

現実は確実に変わる


腕立て伏せの出来る回数が

増えたのだからその時点でもう

過去とは違う自分になったのだから

当然の変化だ


進化してから

過去を振り返ると

あの時の自分の選択が

間違っていた事に気づく


その感覚を知る者なら

社会の変化に置き変えても

想像する事が出来るかもしれない


一人の人間でも

環境や立場が変わると

感覚が変わり

目的もそれに合わせて変わる


自分一人の

時間軸でも変わるものなら

社会や世界の感覚も

変化前と後では

別世界になるだろう


戦争どころか

他者と競う事すら禁止されて

育った今を生きる若者達が

戦前教育を受けて戦い

困難をあえて社会の為にと

受け入れながら生きて来たであろう

高齢者達の言葉が

はたしてどこまで伝わるのだろうか


当然その言葉の中には

事実とは異なる感情も混ざり

そもそも他人を

殺害する事が選択肢に

なぜあるのかと不思議に

思うかもしれない


法治国家を自称する

この国では

たとえ目の前で愛する誰かを

殺されたとしても

その犯人を殺せば

罪に問われるはずだ


裁判では情状酌量を得て

無罪にはなるかもしれないが

おそらく警察には拘束され

取り調べを受けるに違いない

そんな義務教育を受けて

なお戦争体験を語る高齢者に

寄り添える感覚とは

どんな感情なのだろうか


政治家やメディアと

呼ばれる大人達ですら

特定の日にしか考えられない

その難題を子供たちは

どう捉えているのだろうか