自信を持てと言われても
無いのだから持ちようも無い
それでも日々
暮らせているのだから
無くても出来る事は
何かしらあるのだろう
基本的に人間は
食う寝る何かするを
繰り返す訳だから
食べる事と寝る事は問題ない
おそらく自信が持てずに
苦しむのはその何かをする為の
エネルギーが少ない事だ
難しく考える事もない
幼子なら何も考えず
ただ思いついた事を誰かに伝え
誰もいなければ
何ものにも邪魔をされる事無く
その欲求を満たしてしまう
躾という外的要因によって
大概は自信を失う
要するに叱られる事で
欲求を抑える努力を自らに強いて
達成する毎に
自分を見失ってしまう
躾を行う人の
その喜ぶ姿が嬉しくて
自ら欲を捨てる
そんな素直な人なら
欲には振り回されはなくなるが
何かをするには外的な
要因を必要とする事だろう
電化製品が独りでに
動き始めたら困るから
オン・オフのスイッチという
便利機能が必ず付いているように
人も躾という反復練習によって
培われた欲求抑制の効果が
自発的に何かをする事に対する
嫌悪や憎悪を生み育て
たとえば誰かの
命令や赦しが無ければ
自らの行動すら決める事が
出来なくなるのだろう
つまり自信が持てずに
何かが出来ないのでは無くて
赦されていない
もしくは命令されていない事を
自己判断していけないのだという
思い込み習慣が欲求を縛り
その何かをする事を
躊躇わせてしまうのかもしれない
躊躇いとは
安全装置のように強固で
自分自身を危険から守る為に
無意識に起こる現象だから
その反発エネルギーを抱えながら
何かをするには
膨大なエネルギーを必要とする
ただ前へ走るだけの人と
腰にロープを括り付けられて
後ろへ引っ張られている人とでは
たとえ同じ力を加えても
前進と後退もしくは踏み止まるという
違いを生むかもしれないし
現実はいつもそうなのだろう
目的があって意志もある
けれども緊張に体が硬直して
その目的へと前進する事が出来ない
しかし諦めなければ
最初から出来る人と同じように
いつかは前進する事も出来る
要は反発エネルギーよりも
前進するエネルギーが強ければ
問題は無い
躊躇いが緊張や怖れを生み
それまでの躾けられた経験が
その意志の邪魔をする
いくら全力を出しても
他の人に出来る事が出来ずに
諦めたり自分を責めたりと
どんどん反発エネルギーが大きくなり
それに比例して自己否定感も膨らむ
自信とは信じる力だから
信じられなければその力は弱まってしまう
しかしそんなものが無くても
今こうして生きているのだから
無くても出来る事は
何かしらあるのは間違いない
だったら
自信など無くても
出来る事から
始めてしまえば良い
それは家の周りの散歩でも
箸の持ち方の練習でも
ゲームのレベル上げでも
何でも良いから続けていると
それをやる前と後では確実に変わる
それは躾られる前と後の違いと同じで
変わる事で良くも悪くもなるし
自分にとってそれは良いのか悪いのかを
決めるキッカケにもなる
何かをしたり出会ったりすると
必ず喜怒哀楽のどれかを感じる筈で
何となく続く事には
何かしらの良い事があって
自覚は出来なくても続けているだけで
変化を生む事が出来る
その先に何が起きるのか
それはその時にしか分からない
だから自信なんかいらない
そんなもの無くても
出来る事を始めてみよう
何かが出来た
もしくは結局出来なくても
少なからず続けられたという
成功体験が自分を信じる
そのキッカケになる訳だから
何かをするという
チャレンジさえ繰り返していれば
その内に自信なんて
不意にあとになって持っている事に
気づくものなのだろう