人が現象に終わりがあると

思い込んでしまうのは

死を目の当たりにするのが

日常茶飯事だったからだろうか


おそらく森羅万象には

終わりも始まりも無いだろう


それは目の前を

数多の現象が通り過ぎるだけ

認識出来ない現象が

この現実を繋いでいる事は

科学的な証明も

すでに終わっている


上下左右へ広げる

パラメーターは意味を成さない

その目盛りも

特定の指標の源は感性だが

それを数学を用いて体系化したものが

学説などと名づけられ

波紋のように知性が広がるだけで

おそらくそれすら元は感性だろうと思う


具体的に例えると

大きさだろうか


終わりが無く

始まりも無い感性世界では

宇宙と原子と呼ばれる存在は

まったく同質である


宇宙の中に銀河があり

太陽があり緑の地球があり

私がいる事と

原子の中に原子核があり

中性子や電子や陽子がある事は

まったく同じ事だが

それは大きな括りを

分割して行くと辿り着く

現代科学の限界値


もしかするともっと細分化が

出来るモノかもしれないが

その先にはあまり意味は無い


少なくとも感性世界では

という意味ではあるが

つまりはそれらすべてを含む存在が

宇宙なのだからそれだけだ


終わりが無いのだから

宇宙という括りの外側にも

何かしらの存在がある


しかし宇宙という存在を私は

外側から確認は出来ない

それは私の十二指腸が私の外見を

確認出来ない事と同じ


その事実は

私が宇宙の一部部分である事の

証となるだろうか


人の体が水やタンパク質

それら何かしらの物質の集合体である事と

同様に捉えると私は宇宙という事になる

だから私は宇宙の外見を確認出来ない


終わりがない以上は

宇宙の外側にも何かがあり

仮にそれを江宙とすると

御宙や過宙といった具合に

どんどん外側へ別の存在がある事が

予測されるが

それはどこまで行っても推測の域を出ず

証明は不可能だ


しかし一番大きい存在は

仮に一番小さい存在と同じだと考えると

マトリョーシカのように

どこかの大きさから始めると

大きくも小さくも重ねたり

剥ぎ取ったり出来ると思い込むが

実際はどうなんだろうか


もしも黒い穴に

吸い込まれていたという考えを

大きくなったり

小さくなったりしていると

考えるとどうなるだろう


人の視覚的に

捉えられないほどの大きさ

例えば水平線を隔てた

海と空のように

その境界が曖昧でしかも

始まりも終わりも分からない

この惑星が目にも止まらぬ速さで

原子の大きさになると

始めから目には見えない