何故に人は怪談を好むのか
幽霊が見える人と見えない人が
いるのはなぜだろうか
今の日本人の大半が
享受しているこの平和な日々は
おそらく太古の王族も
味わい尽くしていたに違いない
古今東西
退屈とは苦痛であるから
何かしらの娯楽を求めるのが
必然の流れになる
その欲求に贖うことなく
行動に移して凌ぎ
気持ちが高ぶり楽しく感じれば
それが趣味にもなるだろう
私の母親などは
若い頃から映画が好きで
テレビが普及してからは
家で2時間ドラマを
これでもかというほど観ていたが
おそらく太古の王族の姿とは
あのような事であったろうと思う
思えば私の日常なども
もはやその王族と変わらない
王族とは
その存在自体が職であり
暮らしそのものが
与えられた役割であるから
考え方にもよるが
1日のすべてが仕事なのだと
そんな捉え方も出来ようか
何不自由も無く
お付の誰かに指示を下せば
仰せのままに
物事が達成されてしまう
それが退屈な日々を生むとは
何とも因果なものだが
中世の社交界なども
そんな暇人達の退屈しのぎが
発展したものだろうが
そこでの対立や競争心が
国という大きな組織同士の争いを生み
何度となく悲しみと憎しみの
連鎖を繰り返して来たのが
この世の歴史なのだろう
どこの世界にも
血なまぐさい歴史があり
恨みつらみが重なり
罪悪感に囚われるような
誰かも居たことだろう
罪の意識が怖れを生み
他者の怖れを利用する事を
試みる者達が現れる
それもまた必然
幼い子供が
たとえばモノを粗末に扱い
勿体ないお化けが出るぞと脅され
真っ暗な夜に
カタカタと音を立てて
何かが近づいて来たと勘違いすれば
それはそれは
恐ろしかったに違いない
真っ暗闇で
何も見えなかったが
確かに聞こえた
近づいてくるあの音に
暇を持て余した絵描きあたりが
その姿を描いて
その絵を見た誰かが
また暗闇で何かしらの恐怖を感じた時に
その絵にあった姿を思い出しては
より強く恐怖を心に焼き付けるのも
また必然なのだろう
しかし
誰もがその恐怖を抱くとは限らない
暗闇で何かが風に飛ばされ
音だけ聞こえたと思い込んでしまえば
その光景を想像してしまえば
何も怖がることは無い
おそらく捉え方
その個人の体験や見聞きした情報と
それらを手にした順番によって
導き出される思い込みが
変わるだけなのかもしれない
太鼓の昔は
農民からすると王族とは
さぞや豪華な
生活をしているだから
困ることなどあるはずもないと
思って羨ましく感じ
しかも自分の苦しみの感触が
常に付き纏うものだから
妬ましく思ったかもしれない
それは現代に於いても
格差社会と呼ばれて繰り返されている
他人の暮らしなどは
誰かしらから見聞きは出来ても
その心の中までは分からない
良い暮らしをして
良い人間に囲まれ
良い人生を送っている様に
見える人にも
何かしらの悩み事があるものだと
思い込んでいる者には
他者の苦しみが見え
そう思い込まない者には見えない
良くない暮らしをして
良くない人間に囲まれ
良くない人生を
送っているように見えはしても
実はぽや〜んと幸せを
感じているかもしれない
怪談話がいつの世にも流行り
もはや夏の風物詩となっているのは
そういった誰もが体験した
現実の思い込みが
形を変えて心のスクリーンに投影された
幻だからなのかもしれない
その個々人の思い込みが
見せる苦しみや悲しみから連想させる
その感覚が幽霊の
正体なのではないだろうか
そう考えると
見える人と見えない人がいるのも
納得できる
幽霊と捉える何かとはつまり
人それぞれの思いから連想する
何かを有形化させた
感覚そのものなのかもしれない