戦争という悲劇がもたらすのは

勇敢な戦士達の死だろう


その一人ひとりが

どんな想いを抱きながら

戦地へと向かいそして散ったのかは

もはや誰にも分かりはしない


ただおそらく愛する人の為に

たとえばそれは家族であり

故郷や祖国を守るという 

時には脅迫観念を抱くような環境で

他の選択肢を奪われながら

戦ったかもしれない


後の世に生きる

私などには理解すら出来ない

思想判断があったのだろう


争いである以上

勝者と敗者に区別され

勝者は敗者へと無理難題を

突きつけたに違いないが

世界大戦が終わり

今年で80年という区切りの年を迎え

改めて未来へ向けた

希望があるとすれば


それはやはり

その人生を志半ばで

祖国の為に命を捧げた

名もなき英雄達へ

感謝の想いを捧げる行為を

世界で共有する事だろう


国の為に命を賭した御霊へ

祈りを捧げる行為を

止める権利などは

おそらく無いはずだから

この国では靖国神社の参拝などは

他国から遺憾と告げられてしまうけれど

敗戦国だからといって

その生命の投げ出してまで

戦った英雄達へ感謝の念を送るのに

誰の許しが必要だろう


他国の攻撃で亡くなった方々

旧日本軍の攻撃で亡くなった方々

その生命の価値に差など無い

あるというなら

おそらく世界平和などは訪れない


戦争という過ちを起こして

罪を背負う責任は確かにあるが

後の世で暮らして

戦勝国の文化を取り入れて

その素晴らしさの虜になった

馬鹿野郎が

こんな事を話しても

なんの意味もないけれど


戦場での戦いに挑んだ

戦士達が目指してしたのは

愛する人たちの

平和な暮らしだったろう

それを達成して挙げられるのは

今を生きる我々しかいない


腹の立つ事は

確かに多い


肌の色や話す言葉や

習慣も趣味趣向だって全く受け容れられない

そんな人達もたくさんいる

でもそれは他国人とは限らない

隣近所の人とも

分かり会えない事も多々あるのだから

他国の人の理解できない

言動を受け入れられなくても

特別不思議な事は無い


ただ愛する誰がを

思いながら死んでいった先人達へ

感謝を伝えることくらいは

お互いに許し合っても良いのではないか

それくらい誰かを想える人は

信用に値するのではないだろうか