いじめとは何か

それはおそらく嫌いという

感情からはじまる現象で

ピーマンが嫌いなのと

大して変わらないその感情が

人間関係に現れるだけの

個性なのかもしれない


幼子がイヤイヤと

顔を背けるのと同じで

嫌いな物をあえて口にしない

あの行動を我慢させた挙句の

悲劇なんだろうか


人嫌いな立場から考えると

教室という空間に閉じ込められている状態で

出来れば波風を立てないように

穏やかに過ごしたいだけだから

特に他人に興味が無ければ

話し掛けられても素っ気無い態度で

当たり障りの無い

リアクションをしてしまう


危険さえ無ければ

放っておいて欲しいのだから

自分の席で黙って

小説や漫画を読んだり

音楽を聴いたりして過ごしたい


特にお喋りが好きでもないから

家と同じように与えられた

その場所で自由に過ごしているだけ


しかしこの世の中には

他人に興味が有り

常にお喋りをしていないと

落ち着かないという人も居て

いつものメンツとの会話が途切れたら

新たな話題を求めて

何でも良いから探し回り

その行動の一つが

誰かに話し掛けるという行為で

そのリアクションが

自分の思ったものと違うと

違和感を抱き

 

はじめは暇つぶしの話題になり

面白おかしくお喋りすれば満足だけれど

人それぞれの感性が

常に好き嫌いの範囲設定を繰り返し

好きになればもっと関心を持ち

嫌いになっても関心を持ってしまう


何らかのきっかけで

好き嫌いの判定をオートマチックに

発動させてしまうのが人間の悪い癖で

それまで黙って席に居ても

気にもしなかったのに

その判定をしてしまうと

視界に入るだけでも

何らかのスイッチが切り替わり

嫌いと判定した誰かに対して

嫌悪感を抱いてしまう


その感覚は

嫌いなピーマンを我慢して食べるようで

決して気持ちの良いものでは無いから

出来るだけ遠ざけたくなるけれど

教室という閉ざされた空間に

閉じ込められているから離れられない


嫌いなピーマンなら

口から吐き出せば解決で出来るけれど

クラスメイトの誰かを嫌いになると

簡単な話では無くなってしまう


一方的に嫌い

相手はそれに気づく訳もない

そんな事は分かっているけれど

嫌いな何かが近くにある状態とは

決して気持ちの良い感覚ではないから

どんどん嫌悪感は増殖して

やがて恐怖や怒りという感情を生む


祖父母や両親が

可愛い孫や我が子を

目に入れても痛くないと言うが

嫌うという感覚は

まさに視界に入るだけで

痛みを伴うのかもしれない


その痛みは

嫌った相手の攻撃では無い

身体から湧き上がる嫌悪感は

自分の分泌物と同じ


そんな事は分かっているけれど

その苦しみから解放される為には

嫌いな相手から

離れななければならない


ただそれだけで良いのだが

義務教育という制度がそれを許しはしない


街中を歩いている時に

向こうの方から

如何にも柄の悪い人が歩いて来たら

どうするだろうか

おそらく目も合わさずに

少し距離を取りやり過ごす

もしくはすれ違わないようにと

手前の角を曲がり遠回りする


危険や恐怖を感じれば

それがたとえば壊れかけた吊り橋なら

渡らずに違う橋まで行くだろうが

クラスメイトを嫌うという

壊れかけた人間関係は

なかなか迂回出来ないから

厄介なのである


おそらく初期段階では

嫌味や皮肉を

人伝てに触れ回り近づかれないように

警告を発する程度だけれど

視界に入ったり

ましてや授業中に褒められている姿を

見ようものなら一気に怒りの感情に支配され

攻撃せずにはいられない

そんな衝動に駆られてしまうかもしれない


お互いが攻撃的な性格なら

嫌味や皮肉の時点で

揉め事が表面化させて

逆に仲良くなる事すら起こるのが

人間だからまたや厄介で


人嫌いは最初から

嫌いだから相手に好かれてさえも

逃げ惑うから

そこまで追い込まれはしないけれど

人好きな人が誰かを嫌うと

こじれてしまうのかもしれない


人間関係とは

世代を超えて厄介な問題だ