名前とは不思議なもので

姓名という上下に分けられて

大概は上の姓の方で呼ばれる事が多く

家族でもなければ

下の名前を呼ばれる機会がない


両親が離婚をすると

姓が変わり元が父方の姓なら

母方の姓を名乗り

その母親が再婚すると

今度は再婚相手の継父の姓を

名乗る事を余儀なくされる


結婚など所詮は

紙切れ一枚の関係だなどと

昔のドラマでは

よく聞いたその台詞


婚姻関係を結ぶ本人達は

確かに重さを感じることは

無いのかもしれないが

物心もつかぬ前に

連れ子として養子になった事を

ある程度理解が出来た時には

もうその呪縛からは

逃れられなくなっている


今更と思いはしても

喉の奥に魚の骨でも詰まるような

この違和感は四十年以上が過ぎても

無くなりはしないのだと

改めて考えると実感してしまう


何不自由もなく

赤の他人の血筋である私を

育ててくれた家族には

申し訳なく思いはするけれど

唯一自分を下の名前で呼んでくれる

その存在達に

嫌悪感を抱いているからなのか

何となく下の名前で

呼ばれる事が苦手なのだ


学生時代の先輩や

近所の大人に呼ばれると

嫌な気持ちになったので

下の名前で呼んでも良いかと

尋ねてくる人には

丁重にお断りをさせて頂いた


気恥ずかしさもあったかもしれない

同級生や親しくもない誰かに

自分しか示さない

その固有名詞で呼ばれるとハッとして

まるで心の中を覗かれているような

気持ちの悪さに襲われた


一人で暮らし始めて

同じ性の親戚とも

関わらなくなってからは

まったく下の名前で呼ばれる

機会は無くなり

今では自分の名前を意識するのは

何かの用紙に記入する時くらい


一人語りが好きとは言っても

流石に自分を名前では呼ばないから

年に数回の母と電話で話をする時以外に

名前を呼ばれる事は無い


この現実が自分の心理に

何かしらの影響を与えている


自分巡りの冒険を経て

一つになった魂とでも表現すべきなのか

その感覚に沿って考えると

まるで自分が透明人間にでもなったかのような

錯覚を起こしているのではと

ほんの少しだけ心配になってしまう


名前とは自分自身を

示す唯一の言葉であり

言葉過敏な自分が名前で呼ばれない

この現象そのものが

心に何かしらの影響を及ぼしている


そう考えると

紙切れ一枚のこの家族関係とは

自分にとってどれ程の重荷となって

いるのだろうと思う


違和感があるから

不意に湧き上がるこの想い

家族を嫌い苦手にはしているけれど

決して憎んでなどはいない


自分にとっては

後天的な家族もそれ以外の他人も

何も変わらないから

仲間意識とでも言うのか

そんな当たり前の親近感を

持ち合わせてはいないから

自分だけを示す固有名詞で

誰かに呼ばれると

ただ恐ろしく感じるだけ


親しみを込めて

呼んでくれた人もいたのだ

家族もそうだったように

ただ自分には刺激が強すぎた

誰を責める必要も無い

自分を含めて何も問題もないのだから

放っておいても構いやしない


しかしそれが

逃げているという事なんだろうか

その答えはまだ見つからない

もしも本当の名前で呼んでほしいと

願える誰かに出会えたら

その答えに辿り着けるのだろうか