人生においての本分とは何か

それは己の道を歩む事なんだろう

そう考えると職場こそが

副業の場なのだと気づく事が出来る


本業は生きること

人とはそれ以外にない


日々の暮らしの中で

積み重ねる事なら何でも仕事で

朝起きることから

夜寝付くまでの全ての行動が

本業となるのだろう


そう考えると職業などは

副業であるから何でも良いのではないか


子供の頃から

大人にはなりたくなかった

それは単に両親を見て

毎日働くことが面倒のように

思えたからだ


無理をして喧嘩をして

いさかいの耐えない家族と一緒に暮らすことに

なんの意味も見いだせなかった

とにかく落ち着ける場所を求めて

毎日一人になれる時間を作り続けていた

あの頃の自分の副業は孤独探しだった


学校という場所では

図書室や音楽室

六年生になると配膳室という

誰も来ない秘密基地のような場所を

独占していつも過ごしていた


休みの日は

酪農家の息子として

牛小屋の掃除やエサやり

放牧といった作業をしていたから

自然と一人の時間が増えた


高校生までそんな暮らしが続いて

進学を機に実家を離れた

そうはいっても半年も経たないうちに

専門学校を退学してからは

たまたまその当時アルバイトをしていた

土産物屋でフルタイムにしてもらい

気がつけばフリーター生活が始っていた


扱っている商品やお客さんには

全く興味がなかった

ただその場の同僚とのコミュニケーションが

心地良かった

同世代の大学生やパートの主婦達との

他愛のない会話が楽しかった


5年ほど過ぎて

同年代の大学生達は辞めていった

一人取り残された気がして

何となく物足りさなを感じ始めて

その気持ちに気づかぬふりをして

騙し騙し続けていたら

ストレスが溜まったのかイライラして

周りの人たちに

当たり散らすようになってしまった


二十代前半の血気盛んな時に

あの狭いお店だけが全ての生活では

窮屈だったのかもしれない


散々世話になったのに

後ろ足で砂をかけるように逃げ出した

今にして思えばあの時

解雇してもらわなければ

もっと感情的に苦しんだろうと思う


その当時も辞めてくれと言われて

どこかホッとしていた

その場所から離れたがっていたのは

自分自身だと気づいていながら

外へ飛び出す勇気が持てずに

苛立ちを周りの人たちにぶつける

そんな自分が

嫌いだったからかもしれない


実際に職場を失うと

当たり前に探さなければならない


働くということを

前向きに捉えることが出来ないから

なるべく楽そうな仕事は無いかと

アルバイト情報誌のページをめくり

時給が安ければ作業も楽だと思っては

どれにしようか迷うだけ


掃除を選んだのは

まさに楽そうに思えたからだった


勤務中の休憩時間に

面接を受けられる近場の

清掃会社に採用されて

生活費を稼ぐ必要に迫られて

何となく始めた清掃作業が

意外と丁度良かった


イメージ通りの

勤務形態ではなかったけれど

あちらこちらのオフィスや商業施設での

作業は楽しかった

見たことのない場所へ行けるのが

楽しかったし

何より学ぶ必要もないくらい

簡単な作業を延々と

場所を変えながらただすれば良いというのが

気楽で性に合っていた


誰かの為に何かをする

社会では当たり前のその責任が

プレッシャーで

たとえやらなくてもあまり人に影響がない

掃除という役割をあえてするだけで

お金がもらえて暮らせることが不思議で

こんな楽なことはない

そう思えたことが救いだった


他人に迷惑は掛けたくない

だから休めない

そうではなく自ら残業を買わなければ

生活できないからという環境も

怠け者には丁度良かった

あの期間が成長の第一歩だったと

今にしてはそう思う


保育園から小学校へ行き

卒業しても中学校に通うだけ

周りがみんな行くからと

当たり前に高校へ進学

何も考えることは無かった

ただその日を過ごすだけ


学生時代のどこを切り取っても

将来の夢などなく

当たり前に朝起きて

夜寝付くまで過ごす毎日が

延々と繰り返されていた

まさに家畜やペットと同じ存在だった


幼い頃のある日

牛小屋の掃除係りに任命された


誇らしかった

放牧に出された牛達のいないその場所で

黙々と作業するのが好きだった


体を動かすと気持ちが良いし

糞や汚れた寝藁が散乱した床を

竹箒で掃くだけの簡単作業

汚かった床が綺麗になって行く

その様が心地良くて

仕上がった床を見渡すのが好きだった


生まれて初めて与えられた役割

牛小屋の掃除が天職だったらしく

そんな感動すらすっかり忘れていたのに

無意識には残ったままだったらしく

とにかく楽なことをと思って

選んだつもりの清掃作業を

今ではわざわざ好んで選ぶ始末


金にもならず

名誉どころか馬鹿にされ

二十数年間

それでも何となく

続けて来た理由を考えても

何も思い浮かばない


他の職業の経験も

最初にしていた土産物屋の店員以外は

数ヶ月と持たずに辞めてしまい

すぐに清掃作業員に戻ってしまった

作業場所や同僚も関係ない

ただ作業に没頭するのが気持ち良い


毎日同じ場所で

同じ清掃作業を繰り返すだけなのに

まったく飽きないのは何故なんだろう

そんなことを考えながら

作業をしていると不意に思う


自分の感覚に

包まれている時が一番落ち着く

物思いに耽るとか

サウナで交代浴をするとか

体を動かすとか

その感覚に浸るのが

どうやら自分は好きらしい


同じ場所で同じ作業を

毎日ただ繰り返していても

感じ方は毎日違う

たとえば靴紐が少し緩んだのを

放って置くだけでも

体の疲れ方は変わるのだ


靴の中で足が動くと

踏み出した力が上手く床に伝わらないのか

ほんの僅かなそのロスが

1日に1万何千歩と繰り返すと

負担は大きくなり

普段は足に痛みなど感じないのに

ふくらはぎやスネのあたりが

痛み出したりする


その答えに辿り着くまでには

いろんな要素が必要だった

そして結果として

靴紐を結び直すだけで

その疲れは解消されることに気づいた時

自分の感情の起伏の原因は

こんな些細な物理的な現象によって

引き起こされるのだと知った


人生の本業である

己の道とはなんだろうか

おそらくそれは己を知り

あやすことではないだろうか


いかに心地よく日々を
過ごすのかというチャレンジを

毎日繰り返しながら

それをこうして文字に残し

後で振り返り

あたかもつづら折りの

道ように思える

その坂道をただ巡るだけで

楽しくなれるのだから

なんとも安上がりな性分だと

自分でも呆れてしまう