若い時の苦労は

買ってでもしなさいと言われていたけれど

経済的には不自由のない

生活が送れた家庭で育ったものだから

売れっ子芸人の下積み時代を綴った

自伝的な小説に感化されて

三畳一間の共同トイレ

もちろん風呂無しのアパート暮らしに憧れたから

自分から貧乏生活に飛び込んだ


最初に一人暮らしを始めた部屋は

さすがに風呂が無いのは不便だから

風呂トイレ付きの

四畳半一間を選んだ


田舎の高校生が

一人で不動産へ来たのだから

おそらく不審に思われた事だろうと

今にしては思うけれど

当時は両親に自分の住む部屋なんだから

自分で探して来いと十万円を渡され

そりゃそうだと思って

店先の看板に家賃二万五千円と書かれた

物件を見せて欲しいと伝えたら

車で案内された


一階部分が駐車場となった古びたアパートで

コンクリートの階段を登ると砂利がひいてあり

数台自転車が止めてあった

そのちょっとした庭のようなスペースを

通り抜けて建物に入る

そうは言っても人一人が通れるくらいの

細い通路からこれまた細い外階段を登り

2階へ上がった部屋へと案内された


入ると全てが見渡せた

一目で確認できる狭い部屋だった


入り口の右手前に風呂トイレ

その向こうに半間の押入れ

そのまた向こうに窓があって

風呂の向かいに流しがあるだけの

小さな部屋

まさにこれだと思って契約した

即決だった


敷金と礼金と前家賃一ヶ月分に

火災保険代を払ったらちょうど十万円

一泊二日で帰って来たものだから

両親には何度も本当に決まったのかと

しつこく聞かれて辟易したのを覚えている


あの頃は貧乏というものが

何であるかなんて関係なかった

ただそういう暮らしをしてみたかった

高等学校とはいえ

何も手にしないまま卒業して

空っぽのまま専門学校へ進学したけれど

半年もしない内に辞めた


一人暮らしを始めた当初は

学生だから仕送りもしてもらっていたし

アルバイトをすると

なかなか裕福な暮らしが出来た

自分にとっての貧乏とは

あの狭い部屋だけで

不便さは受け入れていなかった


学校を辞めても実家には戻らず

ずっとアルバイトだけの生活を送っていたら

仕送りを止めると両親に言われて

必然的にフリーターとなった

とは言っても同じバイト先でフルタイマーに

してもらえたから環境は変わらなかった


本当に貧乏を体験したのはここからで

ようやくこれまでの人生が

どれだけ恵まれていたのかを実感して

両親へ感謝の念を抱いたりもした

アルバイト先の人間関係が

家族に思えていたけれど

そのせいなのか遅れていた反抗期が勃発

出たり戻ったりを繰り返して

最後に解雇になった


ホントに孤独になったのはこの頃で

両親にも頼れず家族のようにしてくれた

アルバイト先からも離れ

どうすれ良いのか分からなかった

解雇とは言っても一ヶ月くらいの猶予を貰い

その間に別のバイト先を見つければ良い

そう思ってはいたけれど

自分に何が出来るだろうとか

何がしたいのだろうと考えても

何も思い浮かばず

ただ無駄に日々が過ぎていった


情報誌をめくりながら

コンビニ店員

ビデオ屋の店員

飲食店の店員

イマイチピンと来るものがないまま

また数日が過ぎて

退職前にバイト先を見つけないと

生活費が滞ってしまうという焦りが出始めた


もちろんその頃の自分に貯金など無い

そんな概念すら無かったし

それまで何とかなっていたから

特に恐怖心も無かったけれど

収入が止まる事の恐ろしさを始めて感じて

狼狽えるばかりで一層焦ってしまった


ピンチの時には

何かしらのヒントがもたらされるもので

たまたま暇つぶしに観ていた

テレビドラマのワンシーン

主要な登場人物の女性が掃除をしていた

それを見て楽だろうなと思った


母親世代の女性でも出来る作業を

自分がやれば負担無く出来るだろうと思った

子供の頃に与えられていた役割だったし

そもそも汚い場所が

簡単な清掃作業をするだけで

綺麗になると気持ちが良かったから

清掃会社で働こうと決めた

不思議とすんなり働き口が見つかった


運命の扉なんてものがあるなら

おそらく気づかないうちに通り抜けてしまう

それくらい自然に存在していると思う


あれから二十年以上続けている

止めようと思った事はあるけれど

他の職業へ浮気してもすぐに戻ってしまう

職場を転々としても職業は変えられない

辞める時はいつも人間関係が嫌になるだけ

掃除の作業は飽きる事が無いし

今に至ってはしなければ体調を崩す始末で

おちおちと休んでも居られない


掃除という役割は

子供の頃に親から始めて貰った安心だった

あのいつも嫌味ばかり言う

父親を黙らせる必殺技だった

掃除さえすれば

何も言われない怒られない

ずっと一人で

掃除している時間は安心出来た


そんな幼い頃の成功体験が

あの日たまたま暇つぶしに観ていた

テレビドラマのワンシーンで蘇り

今も大切な思いでとなって

何度と無く繰り返し思い浮べては

一人で心を熱くしている


幼い頃は掃除と言えば罰ゲームで

学校でも罰としてトイレ掃除をさせられる

なんて場面を何度と無く見て育ったから

清掃作業員である事が恥ずかしかった

建築現場の掃除に行くと

必ず他の職業の職人さんに

「掃除してるだけで金貰えるなんて良いな」と

良く馬鹿にされた


ただ本当にそう思うなら

自分もやれば良いのにとは思っていた

恥ずかしいとは感じていても

作業自体は好きだし

他に出来そうなことも無かったから

辞めたいとは思わなかったし

やっぱり汚いものが綺麗になるという変化が

楽しくて仕方なかった

体を動かすだけで楽しく感じたし

綺麗にしたという実感が気持ち良かった


今にして思えば当時は自分でも

今の異世界アニメの人間以外の種族のように

思っていたのかもしれない

ゴブリンとかオークとか

そんな雑魚キャラ扱い

家畜やロボットと変わりない存在

それが特別嫌でも無かった


元々人間よりも動物が多い環境で

一人遊びをしながら育ったものだから

多種族に対する

親近感が強いのかもしれない

アニメや漫画でも

よく登場人物に擬人化されたキャラが

多かったせいもあるかもしれない


とにかく直接馬鹿にされれば

腹も立つけれど

影で言うくらいなら構わない

だって知らないから怒りようもない

だから自分の所属する会社の

営業マンとかは大嫌い

彼等ほど分かりやすく

馬鹿にして来る者はいない


大概その会社を辞めるのは

そんな相手に自分が暴力や暴言を実行して

犯罪者になりたくないから逃げ出すだけ

どこの会社へ行っても

見た目は違っても中身は同じ

嫌味な営業マンやらマネジャーやらが

ウヨウヨいるから

ここ十年くらいは嫌う前に去るを

合言葉に職場を転々と変えた


その間くらいからだんだんと

清掃作業員も人間扱いされるようになり

成長を求められたりして

そのプレッシャーからも逃げていたけれど

最近は人手不足ということで

作業員自体の価値が上がり

ただ何となく掃除しているだけで

生活が出来る収入が手に入るようになり

まさにこの世の春を謳歌している


苦労をする事も無い環境で

育てて貰って

逆に苦労する事に憧れて

自分から奈落の底へダイブした


獅子は千尋の谷へ我が子を落とすけれど

私は会ったこともない芸人に感化され

自ら落ちて社会やテクノロジーという魔法のような

強力な力によって崖をよじ登ることも無く

エスカレーター式に

ただ何となく生きて来たものだから

なんか今の賃上げブームに

イマイチ乗り切れない気分になっている


悔しかったり恥ずかしかったり

頑張ったりと努力もして来たけれど

これ以上の暮らしを

夢見る事も出来ないでいる

苦労は出来たと思うけれど

それは身から出た錆だし

そのおかげ今の有難さが身に沁みている


錆を落とした自分を使って

これからの未来に何を描こうかと

考えるだけで楽しい今日この頃